2020/07/21(火) 笠岡市神島「天神社」散策 <1/2>

 ■2020年08月04日17:13
 栂丸山から下山後は、「神島天神社」に立ち寄りでした(^.-)☆


 栂丸山から下山しますと、せっかくの便ですから「神島天神社」に立ち寄ります事に(^.-)☆
 立ち寄りとは言いましても、我が家への帰路方向ではありませんけど(^-^)
 今まで神島を訪れます度に「神島天神社」が気になっておりまして、いつの日か、便があれば立ち寄ろう…と思ってはいましたが、いつまでもそんな機会は訪れませんので、今回、出掛けてみます事に(^_^)v

 「神島天神社」をWEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆天神社(てんじんじゃ) 岡山県笠岡市神島5335

 --- https://genbu.net/data/bicchuu/ten_title.htm ---

 ・御祭神 -- 菅原道眞
 ・合 祀 -- 式内社

 備中國小田郡 神嶋神社 御崎神社 岡山県笠岡市にある。笠岡駅の南東5Kmほどの神島天神に鎮座。
 笠岡港にかかる神島大橋を渡り、神島の海岸沿いを走る195号線を進み少し海側に入ると、砂地の境内がある。この付近は、カブトガニの繁殖地らしい。
 境内は広く、駐車するスペースも大きい。境内入口は南側のようだが境内や社殿は海に面して北向き。ということで、北の鳥居に回りこんで参拝開始。が、参拝時刻が午後だったため、やや逆光ぎみ。
 眩しい太陽に目を細めながらの参拝。

 鳥居をくぐり境内を進むと正面に社殿。海の側の砂地にあるためか、拝殿は、やや海の家の雰囲気がした。拝殿の後方には、瓦葺き流造の本殿。拝殿内の扁額には「自在天神宮」。
 参拝は年末の休日。社殿には多くの提灯が提げられ、社殿前には幟も立てられていた。残念ながら、当社の由緒は未入手。
 『式内社調査報告』によると、神島御崎に鎮座していた御崎神社が式内社・神島神社の論社となっているが、現在は同所の天神社に合祀されている、と記されている。その天神社が当社だろうか。
 当社は、神島の東部に位置しているが、御崎は神島の西端。福山湾をはさんで備後の式内社・沼名前神社と対峙した地である。
 社殿に提げられた提灯には、梅鉢の紋。
 当社の神島天神祭(船による神輿の巡行)は、笠岡市重要無形民俗文化財らしい。

 『式内社調査報告』記載の、当社に合祀されている御崎神社の元社地だが、神島御崎に鎮座していたという。
 神島の地図を見ると神島の西端に御崎という岬があり、現在はキャンプ場やフィッシングセンターになっているようだ。
 暇だったので、その御崎まで車で向かってみたが、御崎の少し手前、御手洗池の側にある見埼に、小さな神社を見つけた。
 地図では、三日月神社と記されているが、鳥居扁額には、「御崎宮」と掲げられている。上記の御崎神社と関係在るのだろうか。
 残念ながら、この社に関する詳細も未入手なのだ。

 ◆天神社 岡山県笠岡市神島

 --- http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1070396096.html ---

 [住所]岡山県笠岡市神島5335
 [電話]0865-64-5030

 天神社(てんじんじゃ)は、岡山県笠岡市神島にある神社。神島天神社とも。県道195号線、極楽寺の近く、海沿い。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
 南北朝時代の延文年間(1356年-1361年)、地頭の小見山某の発願により、創建された。御祭神は菅原道真。
 江戸時代前期の貞享4年(1687年)6月、備後福山城主水野美作守勝慶が社殿を再興し、境内を拡張した。

 寛政4年(1792年)、鴨方の儒者西山拙斉、神辺の詩人菅茶山らが、当社祠官の小寺清先を訪ねた。
 その際、詩を社殿の柱に題した。その後30年あまりして、頼山陽が当地を過ぎ、墨跡を見て景仰の念に勝えず、詩一篇を賦した。
 明治23年(1890年)、本殿改築の際、これら前賢の遺墨はすべて失われた。昭和47年(1972年)、石碑として建立された。
 摂社に御崎神社・大歳神社がある、とも。『式内社調査報告』によれば、当社は神島の西端、御崎に鎮座していた御崎神社を合祀した。
 御崎神社は『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備中国 小田郡「神島神社/神嶋神社」に比定される式内社(小社)の論社である。他の論社に、神島外浦の式内同名神社がある。

 当社の例祭は9月第3日曜日で秋季例大祭、いわゆる神島天神祭である。神東・中村・汁方・福浦・高・寺間・見崎の7地区の千歳楽が宮入りする。
 神東・福浦・見崎・寺間の4地区は船で宮入りし、御渡り行事が行われる。7地区の千歳楽が一斉に担ぐ総担ぎ、天神祭特有のマッセーは、担ぐ様子が非常に勇壮。
 この祭典は、市の重要無形民俗文化財に指定されている。なお、神苑内に上述のものの他、万葉集その他の石碑がある。付近には、カブトガニの繁殖地がある。


 …と、こんな「神島天神社」でありますようです(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 境内を見廻しておりますと、こんな歌碑が…

 
遣新羅使人
 月よみの光を清美 神島の磯廻乃浦中 船出すわれは 万葉集
 鹿児島寿蔵 書


 と、刻まれておりましたので、早速、WEB上で検索です。そうしましたら、こんな記載がありましたネ(^.-)☆

 ◆遣新羅使(けんしらぎし)

 よみ
 月読(つくよみ)の、光りを清(きよ)み、神島(かみしま)の、礒廻(いそみ)の浦(うら)ゆ、船出(ふなで)す我(わ)れは

 意味
 月(つき)の光が清らかなので、神島(かみしま)の、磯に沿って浦を通って船出(ふなで)をします、私たちは。

 補足
 天平八(西暦736)年、遣新羅使(けんしらぎし)が別れを惜しんで詠んだ歌、海路で心を痛めた思いを陳(の)べ、その場その場で詠んだ歌々のひとつです。
 月読(つくよみ)は、月(つき)のことです。

 ・神島の天神社の歌碑
 岡山県笠岡市神島にある天神社にはこの歌の歌碑があります。


 ついでに、「遣新羅使人」も検索です。

 ◆遣新羅使

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 遣新羅使(けんしらぎし)は、日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。

 ◇背景・前史

 日本(倭国)は4世紀に新羅を「臣民」としたことが「広開土王碑」に見え、451年(元嘉28年)には宋から済が「使持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」(『宋書』倭国伝)にされるなど、一定の交流関係があったことが推定されている。『日本書紀』によると、6世紀、新羅真興王に伽耶が滅ぼされるなど極度に緊張した日羅関係下にも、新羅から倭国へは任那の調の「朝貢使」や高句麗使の送使などを名目とした使者の派遣があり、倭国からも推古朝の草壁吉士磐金、皇極朝の草壁吉士真跡、高向博士黒麻呂などの新羅への派遣があったことが記録されている。

 特に遣新羅使が頻繁に任命されるようになったのは、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦いにより唐との関係が緊張してからである。このような状況の下、日本と唐は遣唐使を行うなどで関係改善しつつあったが、唐が日本を征伐するという風聞があったこと、668年に高句麗の宝蔵王が唐に投降(唐の高句麗出兵))たことで唐からの圧力が強まったことに危機感を覚えた新羅との利害が一致した。そこで、共同で対抗しようとする動きの一環として交流は頻繁になったとみられる。白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったことなどから、日本側も受け入れやすかったと推定されている。日本側の目的としては、先進技術の収集のほかに、海外情勢の調査もあったと考えられている。

 ◇経緯

 統一新羅からの第1回目の使者の帰国に際しては、朝廷から新羅王に対して船1隻、絹50匹、綿500屯、韋100枚が賜与されており、当時の朝廷の対新羅観を見ることが出来る。このころには新羅への留学僧が帰国後重用され、日本の律令官制の特徴である四等官への新羅官制の影響が認められるなど日羅関係は極めて良好であった。

 しかし両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。『続日本紀』によれば、735年(天平7年)入京した新羅使は、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。しかし統一新羅になってからは「遣新羅使」の名称が示すとおり必ずしも日本への朝貢関係をとったとはいえない。このころ、渤海の成立を受け新羅と唐の関係が修復されてきており、渤海も日本へ遣日本使を派遣していることが関係していると見られている。翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅へ渡ったが、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。このことから、古くからこの疫病が新羅から持ち込まれたと信じられてきた(『続古事談』巻5・『塵添?嚢鈔』巻5第23)。

 752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究があり、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していたとも考えられている。

 しかし翌753年(天平勝宝5年)には唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。この年の遣新羅大使は、新羅で「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」(『三国史記』)と王(景徳王)に謁することが出来なかった。このような緊張関係のもと、759年(天平宝字3年)には恵美押勝が渤海との連携により軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な新羅遠征計画(藤原仲麻呂の新羅征討計画)を立てたものの、国内政治情勢の変化や渤海側の事情の変化等により中止されている。

 『日本後紀』によると、780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。


 …との事であります(^-^)
 仲々勉強になりました。ですが、この歌碑の書の「鹿児島寿蔵」とは、どんな方?うん、うん、WEB上には、こんな紹介が…

 
◆鹿児島 寿蔵

 揮毫した鹿児島寿蔵氏は、福岡県生まれで、歌人・人形作家です。アララギ派の歌人で紙塑人形の創始者で人間国宝でもあります。
 福岡県福岡市西区宮浦唐泊の「東林寺」の遣新羅使の万葉歌碑も揮毫されています。
 東林寺の記事は⇒コチラ(https://hakataboy.com/temple.php?dirpath=temple/Fukuoka/Fukuoka/TourinJI2/)
 また、福岡県立美術館には鹿児島寿蔵氏作「有間皇子」の紙像が収蔵されています。


 …と、こんな方のようですけど、何でこの方が、どんなご縁で、「神島天神社」の遣新羅使の万葉歌碑を揮毫されましたのでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

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