2020/04/10(金) 福山市御幸町「正戸山城跡」散策 <1/3>

 ■2020年04月20日10:11
 4/10(金)は「正戸山城跡」を散策のGONsanでした(^.-)☆


 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、GONsanが参加予定をしておりました備陽史探訪の会の行事も次々と中止。

 
・備陽史探訪の会
 4月18日【現地学習】中世を読む「正戸山城跡」
 3月15日【青春18きっぷの旅】安芸宍戸氏の居城「五龍城」を訪ねる


 …と、この城跡巡りも早々と中止になっておりました(^-^;
 で、4/10(金)はウオーキングも兼ねまして「正戸山城跡(福山市御幸町)」を散策となりましたGONsanです(^.-)☆

 
◆正戸山城跡(福山市御幸町)

 --- 備陽史探訪の会 1995年5月27日 ---

 福山市駅家町から深安郡神辺町にかけて広がる平野のほぼ中央部に位置する独立丘陵がある。西・北・東は福山市加茂町と境界を接するこの小山を正戸山と呼んでいる。丘陵のすぐ南側は古代の山陽道に沿っており、西側には加茂川が流れている。近年、丘陵南の平野は、広大な敷地を持つ福山平成大学が開校され、大きく発展を遂げようとしている。

 標高約五〇メートル・比高三〇メートルの平野に孤立した感を呈するこの小山が城跡である。頂部からは、神辺平野のほぼ全域や神辺城跡・相方城跡なども眺望できる要衝の地である。しかし、この城がいつ築城されたかは明らかでない。江戸時代後期に編纂された『西備名区』『備陽六郡志』『福山志料』といった地誌によると、「小藤備前守が初めて築城したので小藤」と云ったとほぼ同様な記述がある。

 正戸山城は、南北朝時代になって史料に散見する。一三三六(延元元)年、江良與太郎忠実が、足利尊氏に従って筑前国多々良浜の戦いにおいて武功をたてた恩賞として石(岩)成庄を賜っている。岩成庄は、現在の福山市御幸町下岩成を中心に深安郡神辺町から芦品郡新市町戸手あたりまでの広範な地であった。そして、下村(後の下岩成)に宗岡館を築き、この時点では正戸山城は、まだ築城されていなかったものと思われる。

 一三四九(貞和五)年八月、「観応の擾乱」勃発を機に足利尊氏・高師直と足利直義・直冬、それに南朝方が加わっての争乱が備後地方にも展開された。一三五一(観応二)年六月頃には直義方の上杉顕能が備後の守護になっており、また、尊氏も備後国確保のために同年八月一日岩松頼宥を備後国守護として下向させている。頼宥は、三吉覚弁や長井貞頼らの協力を得て石崎城の上杉一族を破り、八月十三日正戸山城に本拠を構えている。三吉鼓家文書『岩松頼宥感状』によれば、

 備後国石成上下城退治事、去十三日致軍忠之条、尤神妙、京都殊可注申之状如件 観応二年八月十五日 頼宥 (花押)三吉少納言御坊

とある。石成上下城とは、正戸山城の北東の丘陵(現在深安個地のある一帯)にあった石(岩)崎城を一緒にして言っているのである。
 十月九日には、上杉顕能や新市の亀寿山城に本拠を置く宮盛重らに攻められている。こうして暫くの間両守護の対立が続いた。頼宥は、その後生国の上野国新田庄に帰り、細川頼元が備後国守護に入っている。

 戦国時代になると正戸山城は、再び歴史上に登場してくる。宮三郎入道正信(正渡)が志川瀧山城の出城として正戸山城を整備し、一五四八(天文十七)年大内・毛利の神辺城攻撃では、宮次郎左衛門が、一五五二(天文二十一)年の志川瀧山城攻めで、正戸山城主の宮刑部少輔信政(入道正味)が滅ぼされている。その後、栗原左衛門尉信教(元政)が入り城の大改修をしたという。城主は、更に幾人も替わったことだろうが、一六〇〇(慶長五)年の関ヶ原の戦で亡くなった高橋権右衛門種義が、最後の城主としてその名が遺っている。

 城の遺構は、北東から延びた低丘陵の先端部を空堀で区切り独立丘陵とし、頂部を削平して本丸郭を作っている。北方の下段には、馬場と呼ばれる広い郭が、また、西に一、南に一、東に大小併せて七つの郭が確認されている。頂上の一段高い所に石鎚神社が祀られ、その南西の平地には、一九三〇(昭和五)年に行なわれた陸軍大演習の記念碑である「御統監之跡」と彫られた大きな石碑が建てられている。

 …と、こんな「正戸山城跡」のようであります(^.-)☆

 正戸山城跡スグ近くの「セブンイレブン福山下加茂店」でタバコを求め、その際に、車を駐車の了解を頂き、正面に見えます正戸山に向かって、いざ、ウォーキングがスタートです。
 車道に沿って歩いておりますと、ほどなく『歓迎 毛利元就ゆかりの地 正戸山 遊歩道』の案内表示が(^-^)
 この標識に従って狭い遊歩道を正戸山へ。
 石段を少し上がって行きますと左手に、何やらお堂が…ここからは、正面に福山平成大学が…そしてまた歩行続行。そうしますと、正面に白馬の像が(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふ〜ん、昭和天皇の行幸では、その見晴らしから陸軍特別大演習の視察統監の場所にここが選ばれ、その経緯から「御幸」の地名の由来となりましたのですか…
 昭和5(1930)年11月14日、陸軍特別大演習の際、昭和天皇が愛馬吹雪号から下馬され、ここから徒歩で山頂へ行かれたのですねぇ〜で、参道の左手の「御下馬所跡」に、この白馬の像を設置と言う訳なんですネ。納得(^.-)☆

 そして、参道の右手には立派な句碑が…『みゆき野の よすが 淡墨桜(うすずみざくら) かな 照海』と、刻まれておりました(^_^)v
 作者の『照海』sanは何者なんだろう?…と思いましたら、その答えは近くの掲示板にありましたネ(^.-)☆

 
◆和田照海

 福山市の俳人で元中学校長の和田照海さん(86)の句碑が、同市御幸町の正戸山に建立された。…
 句碑は、幅約1m、高さ約1.2mで、和田さんが詠んだ「みゆき野の よすが 淡墨桜(うすずみざくら) かな」の句が刻まれている。
 淡墨桜は、岐阜県にある日本3大桜の一つで国の天然記念物。2年前に和田さんと門井さんは句碑のそばに淡墨桜の苗木を植えている。
 淡墨桜の樹齢は1,500年以上とされ、和田さんは「正戸山にしっかり根を下ろして平和で住みよい御幸町をいつまでも見守って欲しい」と話している。


 …との、こんな朝日新聞記事の写しが掲示板に(^.-)☆
 門井善敬sanは、「正戸山を愛する会」の代表者のようであります。

 
◆淡墨桜

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) ---

 淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市の根尾谷・淡墨公園にある一本桜。樹齢1,500年以上のエドヒガンの古木である。日本五大桜または三大巨桜のひとつ。国の天然記念物である。

 ・特徴

 淡墨桜は蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹高16.3m、幹囲目通り9.91m、枝張りは東西26.90m、南北20.20m。樹齢は1,500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。
 近年では幹の老化が著しく、幹内部にできた空洞も広がりつつあるが、樹木医や地元の人々の手厚い看護によって守られている。作家の宇野千代がその保護を訴えて、活動したこともよく知られる。苗木を分けて、岐阜県や愛知県内あちこちに子孫が植えられている。
 日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年(大正11年)10月12日には国の天然記念物に指定された。毎年の開花の季節には多くの観光客が訪れる。淡墨公園内には淡墨桜の資料を展示するさくら資料館がある。近くに財団法人NEO桜交流ランドが管理運営のうすずみ温泉と宿泊施設四季彩館がある。

 ・沿革

 伝承によると、467年(雄略天皇11年)頃に男大迹王(後の継体天皇)がこの地を去る時、檜隈高田皇子(宣化天皇)の産殿を焼き払い、その跡に1本の桜の苗木を植えたという。
 1913年(大正2年)には大雪のために幹の一部に亀裂が発生し、樹勢が衰えだした。1922年(大正11年)10月12日には国の天然記念物に指定された。
 1948年(昭和23年)には文部省により調査が行なわれ、3年以内に枯死と判断された。1949年(昭和24年)3月10日から4月5日には、岐阜市の歯科医師・前田利行が山桜の根を接木した。前田は人間を診る歯科医師であるが、梅など古木の再生でも評判であった。1950年(昭和25年)には再生して開花した。
 1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風により被害を受け、1967年(昭和42年)4月11日には宇野千代が訪れて惨状を憂いた。1968年(昭和43年)には雑誌『太陽』4月号に宇野による寄稿文「淡墨桜」が掲載され、岐阜県知事の平野三郎が県文化財審議会に保護再生を諮った。その後生物学者の堀武義(岐阜大学)により診断が行われ、再生策がまとめられた。
 2003年(平成15年)には飛騨・美濃さくら三十三選に選定された。2008年(平成20年)には本桜を含む14種の花の種を国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」に8カ月半滞在させた後に地球へ戻し、無重力状態が発育に与える影響などを調べるという実験が行なわれた。

 ・所在地

 所在地:岐阜県本巣市根尾板所字上段995 淡墨公園内
 アクセス:樽見鉄道樽見線樽見駅下車後徒歩15分
 花見客の便宜を図るために、樽見鉄道は4月1日から15日頃に特別ダイヤ(桜ダイヤ)で運行している。本巣地域では淡墨桜に向かう国道157号が「淡墨街道」と呼ばれる。


 …と、こんな「淡墨桜」のようであります(^_^)v

 
◆正戸山を愛する会

 団体名称:正戸山を愛する会
 主な活動分野:まちづくり 団体会員数:88人 設立年月:2010年09月 まちサポ登録年月:2017年09月
 登録番号:164
 目的:本会は、正戸山城跡公園(仮称)をふれあいの場、歴史教育の場、健康づくりの場など市民の共有財産と位置づけ、市民が参加協働し、憩い、集う場とするため、地域住民主体による正戸山環境整備を行うことを目的とする。
 活動内容
  ・環境整備「除草・伐採・植栽」(随時)
  ・俳句句碑整備(随時) ・学区イベントに出店参加(年1回) ・元日歩け歩け運動(年1回)
 主な活動地域:市内・北部 活動時期:不定期 活動曜日・入会条件なし
 代表者名:門井 善敬
 団体所在地:広島県福山市御幸町大字上岩成12番地
 電話/Fax:(電話)084-972-2079 (Fax)084-972-2079

 正戸山(しょうとやま)は、御幸町上岩成に位置する標高49mの小さな山です。南北朝時代から戦国時代まで山城があり、この地域を治める重要な役割を果たしてきました。
 また、御幸という地名の由来となった昭和天皇の行幸では、その見晴らしから陸軍特別大演習の視察統監の場所に選ばれました。現在は,行幸記念石碑「御統監之趾」や石槌神社等があり、城跡公園として維持管理しています。
 多くの方が憩い集える場所として、実物大の白馬(竹細工)や御幸小学校児童、京鹿子の皆さん等の俳句句碑(灌木再利用)が皆さんをお待ちしています。福山市の北部地域が一望できる山頂からの展望も魅力です。
 是非一度お立ち寄りください。

 ◆正戸山

 ・正戸山
 所在地:広島県福山市御幸町
 正戸山は、神辺平野の中央部、御幸町上岩成の北東部に位置し、標高49メートル、平野部からの高さは34メートルで山頂からは神辺平野を一望に見渡すことができます。

 ・正戸山城
 南北朝時代に、足利尊氏から備後国守護として下向された岩松頼宥によって、正戸山の山頂に築かれたと伝えられる山城が正戸山城です。戦国時代には、尼子方の宮氏が居城していましたが、1552年(天文21年)、毛利元就の軍勢の攻撃を受け落城し、
毛利軍の城となりました。江戸時代に入り、一国一城令により廃城となりました。

 ・昭和天皇行幸
 1930年(昭和5年)昭和天皇が行幸され、正戸山の山頂から視察統監される中、岡山方面から来る東軍と広島方面から来る西軍が正戸山南方で決戦する想定で、陸軍特別大演習が行われました。昭和天皇の行幸を仰ぐため、当時の両備軽便鉄道(現JR福塩線)では、正戸山臨時駅を設置しました。
 大演習から5年後の1935年(昭和10年)、昭和天皇の御野立所となった正戸山の山頂に記念の石碑「御統監之跡」が建てられました。

 ・四ヶ村合併
 1938年(昭和13年)深安郡上岩成村、下岩成村、森脇村、中津原村の四ヶ村が合併し、昭和天皇の行幸を記念して村名を御幸村と名付けました。これが御幸という地名の由来です。

 ・正戸山城跡公園
 御幸町の住民は、正戸山城跡を、ふれあいの場、歴史教育の場、健康づくりの場など市民の共有の財産と位置付け、市民が参加協働し、憩い集うことが出来る公園として環境整備をしています。
 そして、御幸町や周辺地域の人々が心の豊かさと相互の交流を築いていける場として、後世へ伝え残しています。

 ・活動団体
 正戸山を愛する会

 ◆備後・正戸山城

 ・別名:小藤山城、勝戸山城、勝渡山城、正渡山城
 ・形態:丘城(49m/34m)

 ・歴史
 築城年代は定かではないが貞和年間(1345年〜1350年)に岩松頼宥によって築かれたと云われる。岩松頼宥は足利尊氏の家臣で備後守護として下向し正戸山城を築いて居城としたという。
 足利尊氏と弟義直が争った観応の擾乱が勃発すると備後守護であった上杉顕能は義直方となり、尊氏はこの上杉氏を押える為に岩松頼宥を備後守護として下向させた。頼宥は正戸山城を居城とすると岩成周辺の諸城を打ち破り、8月には尾道の城に籠る義直方を攻めた。観応の擾乱は尊氏方の勝利となると足利尊氏は義直方であった足利直冬を討伐するため細川頼元を備後守護とした。
 天文年間(1532年〜1555年)には亀寿山城主宮氏の支城として宮氏の一族が城主となった。天文21年(1552年)毛利元就が宮氏を攻めた時、正戸山城も落城して城主宮正味父子は討死し、その後毛利氏の武将栗原左衛門尉信教が城主となって城は大改修されたという。

 ・説明:正戸山城は比高30m余りの独立丘陵に築かれているが、かつては三方を沼地で囲まれた要害であったという。山頂には石鎚神社が祀られ、めぼしい遺構は残っていないが山頂から東側一帯に削平地がある。手持の縄張図では主郭の東側にわずかに石垣が用いられた虎口があるとされるが、本当に虎口なのかどうか見てもわからない。

 ・城主:岩松氏、宮氏、栗原信教

 

 

 

 

 

 ■福塩線

 ・沿線概況

 福山駅では福山城に隣接した7・8番のりばから発車している。わずかに山陽新幹線・山陽本線と併走したのち、高架から地上に降りて進路を右に変えて北上を始める。線路の両側に広がる住宅街の途中に備後本庄駅があり、芦田川の左岸を走行する。
 横尾駅を出ると、芦田川と分かれて神辺駅に至る。神辺駅では井原鉄道井原線が分岐しているが、高屋川を渡った先まで単線並列の線路が続く。井原鉄道が分かれていくと、まもなく国道486号をくぐって左にカーブして湯田村駅につく。
 湯田村駅から進路を西に変えて、道上駅・万能倉駅・駅家駅・近田駅と住宅地がまばらに建っている田畑の中を進んでいく。近田駅付近から再び芦田川の左岸を走行する。次第に両側から山が迫るようになるが戸手駅付近から住宅地が再び目立つようになる。上戸手駅を過ぎて新市駅から府中市に入り、高木駅・鵜飼駅を過ぎると、運転系統上の境界駅である府中駅に着く。

 府中駅までは電化されているが、府中駅からは電化されておらず、気動車によって運転されている。府中駅を出ると芦田川を渡って右岸に移り、川に沿いながら山間部に入っていく。山間部の線形条件が低く、曲線半径が小さい急カーブにより速度が低く制限されている区間があり、雨規制によって徐行運転を行う区間も多い。下川辺駅から再び北上を始め、中畑駅を過ぎて左へカーブしてトンネルをくぐると、河佐駅に着く。山が開けて住宅地が目立ち、府中方面からの列車が折り返す時代もあったが、現在は設定されていない。

 河佐駅を発車し、諸毛トンネルを抜けると右手にはキャンプ場がある。その先で進路を右に変え、芦田川を渡って全長 6,123m の八田原トンネルを抜けると、すぐに備後三川駅に到着する。河佐駅-備後三川駅間のほとんどは八田原ダムの建設によって線路が新線に切り替えられた。旧線の一部はキャンプ場の遊歩道などに転用されており、若谷山トンネルの入り口まで行くことができる。
 旧線には八田原駅があったが、新線への切り替えにより廃止され、現在はダム湖の湖底に沈んでいる。備後三川駅から国道432号に沿い、備後矢野駅を過ぎると上下駅に到着する。かつての上下町の中心にあり、江戸時代は石見銀山から瀬戸内海へ抜ける銀山街道の宿場町の一つであった。次の甲奴駅もかつての甲奴町の玄関口として位置づけられていた。
 山間にある梶田駅・備後安田駅を過ぎて、吉舎駅から国道184号に沿いながら三良坂駅を過ぎ、右手から芸備線が寄ってくると塩町駅に到着する。

 ・歴史(抜粋)

 改正鉄道敷設法別表第91号に掲げる予定線の一部として両備鉄道を買収、国有化し、延長したものである。国有鉄道が保有した唯一の電気運転を実施する軽便鉄道(特殊狭軌線)であった。列車は電気機関車による牽引でのみ運行され、電車は製作されなかった。国有化後に改軌・改築され、現在の姿となった。

 1989年には、芦田川に八田原ダム(1998年竣工)を建設するために、河佐駅-備後三川駅間が八田原トンネル(全長6,123m)経由の新線に付け替えられ、同区間の旧線上にあった八田原駅が廃止された。

 1930年(昭和5年)
 4月1日:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(13.7M→22.0km)。
 11月14日:昭和天皇の陸軍大演習統監のため、道上駅-万能倉駅間に正戸山臨時乗降場がこの日のみ開設される。両備福山駅-正戸山駅間では軽便鉄道としては史上唯一のお召し列車が運転された。

 

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