2020/02/19(日) 山城歩き「山手銀山城」 <2/5> |
「俄山弘法大師堂」では、暫し休憩の後で宿坊に入り、銀山城に向かいます前に、頂いた資料を基にレクチャーとなりました(^.-)☆
本日のご案内は、この銀山城測量調査や、整備を永年実施しておられます備陽史探訪の会・中世史部会の杉本部会長sanです。
午前中は、俄山大師堂の宿坊で、今までの成果や銀山城の位置づけ等の説明がありました。
山手銀山城に関しましては、色んな方々がWEB上に綴っておられますけど、その中から少し拾ってみますと、
◆山手銀山城
山手銀山城は、広島県福山市にあった城郭です。
日本城郭大系によれば、応永年間(1394〜1427)に木梨杉原氏の一族が本拠として山手銀山城を築城し、山手杉原氏を名乗るようになったといいます。
天文七年(1538)に当主・理興は、大内義隆の命により神辺城を攻略し、その城主となりました。しかし、理興が尼子方に寝返ったことから、義隆は毛利元就・弘中隆兼を派遣し、7年間にも及ぶ神辺城合戦が行われました。
弘治三年(1557)理興の死後に、毛利氏は山手銀山城主・杉原盛重を神辺城主に任命しました。山手銀山城自体は戦乱に巻き込まれることもなく、毛利氏の防長移封の際に廃城になったと考えられます。
山手銀山城は、山陽道に向かって南に伸びる山脈の先端部に築かれました。城は大きく北および南の曲輪群で構成されます。これらの曲輪群の東・南・西側は急斜面に囲まれており、北側には深い堀切が設けられていました。
◆備後・山手銀山城
・歴史
築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に杉原氏によって築かれたと云われる。木梨杉原氏の一族が築城したのが最初といわれ、以後山手杉原氏を名乗って代々居城とした。
・説明
城は北から張り出した尾根の先端にあり、主郭から南の尾根と東の尾根に曲輪を配している。城への登城路は両尾根の谷を北西から南東へと落ちる竪堀とされる。この竪堀は谷の奥で主郭側から落ちる数条の竪堀群と合流するようになっている。
主郭部は南から北へ伸びた尾根にあり、三段の曲輪がある。北側が主郭と思われる。 主郭は北側を堀切で断ち、北と西側に土塁があるとされるが、わずかに高くなっている程度である。西側の南端隅部に石積がわずかに残されている。 一番南側の曲輪の北東隅に虎口があり、両側が土塁となっている。 この虎口は外側に空間があり、そこから東面を北側へと通路が走り登城路とされる竪堀へと通じる。 この南の曲輪の西側面には畝状竪堀があるとされるが薮が深く見付からなかった。
東尾根に配された曲輪群は北側に土塁が残り、南側は石垣が部分的に残っている。ここから登城路とされる竪堀を狙うのは容易である。
…と、こんな記載もありましたネ(^.-)☆
ところで、本日(2/4)の中国新聞sanの朝刊なんですけど、杉本部会長sanが紹介されておりました(^_^)v
杉本部会長のお話しが終わりますと、時間も早や正午過ぎですので俄山弘法大師堂で昼食です。昼食後、山手銀山城に向かう事となりました(^-^)//"
それでは今から、「山手銀山城」への山城歩きがスタートです。銀山城への上り口までは舗装されました市道を歩行です。
暫く歩きますと、上り口に小さな表示板が…これには、『ここは城跡(文化財)です マウンテンバイクでの立ち入りはやめてください 発見したら通報します』との記載が(^.-)☆
ふん、ふん、これを目印に上がれば良いようですねぇ(^-^)/
← 戻る Contentsに戻る トップページに戻る 進む → |