2020/10/25(日) 広島市東区「不動院(安国寺)」参詣 <1/2> |
■2020年12月06日19:46
10/25(日)は、嫁さんに同行し広島市の安国寺(不動院)にお参りでした(^.-)☆
10/24(土)でしたか…「明日、命日だから友達の墓参りに広島へ行くけど、一緒に行かない?」と嫁さん。
ふ〜ん、珍しく嫁さんから声掛けが(^-^)
いつも、GONsanが「○○へ行くけど、一緒に行く?」と尋ねますと、大概「行かない。独りで行ったら。」と嫁さんの返答。ですから、一度はGONsanも「行かない、独りで行ったら。」と言いたいところですけど、そこは大人の対応のGONsanですから、「うん、えぇよ(^-^)」と即答です(^.-)☆
嫁さんの友達は、51歳で亡くなられましたから、早や18年を経てしまいましたネ。つぃ先日のような気もしますけど、月日の流れますのは実に速いものであります。
…と言う訳で、10/25(日)は、嫁さんに付いて広島の安国寺行きとなりました(^-^)//"
◆不動院(新日山 安国寺 不動院)
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
不動院(ふどういん)は、広島県広島市東区にある真言宗別格本山の寺院。
・概要
本尊は薬師如来。山号は新日山。足利尊氏・直義兄弟が諸国に設けた安国寺利生塔の一つという(安芸国安国寺)。全国安国寺会会員寺院。
・歴史
-- 中世 --
開基は行基とも伝えられるが、創建年代や由緒については諸説ある。本尊薬師如来像の様式から平安時代には創建されていたと推察されている。足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺で、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄した。
しかし、戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。関ヶ原の戦いで西軍に組した恵瓊は処刑され、毛利氏も転封後、福島正則が芸備両国の大名として入国し、正則の祈祷僧である宥珍が安国寺に入り住持となった。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。後に浅野氏が国主として広島に入ると、浅野家歴代藩主の保護を受け明治に至った。
-- 近世/現在 --
第二次世界大戦中は牛田の住民のみならず中国軍管区司令部通信部など様々な機関の疎開先に指定されていた。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約3.90kmに位置した。爆風により金堂の屋根の一部が吹き飛び、本堂の柱の1本が中央から折れたものの、全体では倒壊は免れている。当日は市中心部から北へ避難してくる被爆者の受け入れ先として機能し、境内にはたくさんの負傷者で溢れかえった。
1958年に金堂が国宝に指定された。1993年に広島市に現存する被爆建物リストに登録されている。
・文化財
-- 国宝 --
・金堂(国宝)
天井の墨書から天文9年(1540年)の建築と判明する。屋根は入母屋造、柿(こけら)葺き。2階建てのように見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、桁行3間、梁間4間(「間」は柱間の数を意味する)の身舎(もや)の周囲に裳階をめぐらす。裳階は正面側の奥行1間分を吹き放しとする。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床の一室とする点、中央を鏡天井とし、その周囲にぎっしりと組物が並ぶ天井の構成、桟唐戸、花頭窓、礎盤付き柱、扇垂木等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。天井高は8.6メートルに達する。この堂は当初から不動院にあったものではなく、もとは山口市にあった禅宗寺院で大内氏の菩提寺であった凌雲寺にあった。それを天正年間(1573-1592年)、安国寺恵瓊が当地に移築したものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。
-- 重要文化財(国指定) --
・鐘楼 - 永享5年(1433年)の建築。
・楼門 - 文禄3年(1594年)の建築。「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
・木造薬師如来坐像 - 檜材寄木造、平安時代後期
・梵鐘 - 高麗時代
墓前にお参りします前に、まずは境内内を一巡です(^.-)☆
◆安国寺不動院の概要
--- https://tesshow.jp/gallary/hiroshima/temple_higashi_fdoin.html ---
真言宗寺院の不動院は、新日山安国寺と号します。不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます(現本尊は薬師如来像)。当寺の本堂(金堂)は、安国寺恵瓊が山口から移建したもので国宝に指定されている他、楼門や鐘楼など数多くの文化財を有し、広島県真言宗教団の別格本山寺院です。
・安国寺不動院の縁起
不動院の創建年代等は不詳ながら、平安時代の創建と推定されています。その後足利尊氏・忠義兄弟が国内各地に建立した安国寺として建て直され、室町時代には安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄、武田氏と大内氏との戦乱で焼失したしまった当寺を、安国寺恵瓊が再建したといいます。安国寺恵瓊が関ヶ原の合戦で敗死し、寺運は衰えたものの、入国した福島正則が、自身の祈祷僧宥珍を当寺に入寺させ、不動明王を本尊とした真言宗寺院として不動院と称したといいます。
◇境内掲示による不動院の縁起
・新日山安国寺不動院の歴史
新日山安国寺不動院は江戸時代の「新山雑記」では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。
ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来座像が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。
しかし、戦国時代の大永年間(1521-27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。
当寺を復興したのが、戦国大名、毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備士、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。
毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺院全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて、明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。
原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして災禍を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。(境内掲示より)
それでは、お墓の方に向かってみます(^-^)//"
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