2019/11/10(日) 紅葉を求めて虚空蔵山を散策でした(^.-)☆ <2/3> |
引き返そう…とは思うのですけど、このまま前進してみよう…との思いも生じまして、またまた思案のGONsanです。
が、右側の観音様方向に眼を向けますと、とても歩いて進めます状態では無さそうです(^-^;
左側の展望台・休憩所方向への上り道は、何となく歩くのも可能なようにも思えるのですけど、やっぱり断念。不本意ではありますが、引き返す事に致します。
復路もまた、倒木の間をくぐり抜けながらの歩行となりました(^.-)☆
駐車場まで戻って来ますと、「銀寿観世音菩薩」「鳶尾城古城址」「里庄美しい森」に向かってみます事に。
少し走行しますとスグに到着で、里庄美しい森・銀寿観世音菩薩の入口には駐車場が存在です。
車から降り「里庄美しい森」の入口に眼を向けますと、『里庄美しい森は、平成31年3月31日をもちまして閉園致しました。長年のご利用、誠にありがとうございました。』の表示と共に進入禁止のチェーンが…
で、仕方なく銀寿観世音菩薩・鳶尾城古城址に向かってみます事に。これもスグに銀寿観世音菩薩に到着で、数台駐車可能な駐車場が…
この駐車場からは、鴨方方面の眺望が楽しめます。眼に入ります白い屋根は「ビッグハット」のようですネ。全天候型多目的施設のふるさとかもがたプラザ(ビッグハット)では、スポーツ利用のほか、各種催し物も多数開催されていますようであります(^.-)☆
そして、左方向の山の上には竹林寺天文台が…
それでは、銀寿観世音菩薩・鳶尾城古城址に向かって歩行開始です(^-^)//"
駐車場から少し歩きますと、スグに建物(拝殿)が…そして、隣接し、鳶尾城跡が…鳶尾城跡を拝見しますのは後廻しで、先に銀寿観世音菩薩に参詣です(^.-)☆
拝殿脇には「建立の由来」の石碑がありましたので、眼を通しますと、下記の記載がありました。
◆建立の由来
平成3年10月の林道鳶尾線整備計画樹立に呼応して、「心豊かな人生」を望むものが相い計り、高齢化の進む中で心のよりどころとして銀寿観世音菩薩(ボケ封じ観音)の建立を計画、広く賛同者に呼び掛け、1,098名の方々のご協力により、41,594,500円の浄財を戴くことができました。
これにより観音菩薩は京都市の椛P豊堂、また拝殿、台座等の工事は笠岡市の葛g本組によって平成5年1月完成したものです。
--- 平成5年1月吉日 銀寿観世音菩薩建立委員会 ---
…と、こんな記載でありまして、ふん、ふん、銀寿観世音菩薩は「ボケ封じ観音」様でありましたか(^-^)
なら、GONsanもシッカリ拝んでおきませんと(^.-)☆
まぁその前に、「鳶尾城古城址」にも石碑がありましたので、由来だけでも事前学習しておきましょうか(^-^)
◆「鳶尾城古城址」由来
虚空蔵山地東南の支脈にある戦国時代の古城址。備中府誌によれば、当城の開基は大内左京大夫義隆、城代として井上伯耆守春忠在城す、と記されている。
城址は北から本丸、二の丸、三の丸としていた。特に南は展望が開け茶臼山、青佐山とともに領国の境の城として絶好の場所であった。
天文年中、大内義隆は毛利元就など安芸、備後の国侍に備後南部への進攻を命じているが、毛利元就は大内氏滅亡後も積極的に備中進出を図り毛利氏は次第に優位を確立した。
その後、毛利氏が備中の地侍を動員して九州に出陣した留守中に宇喜多直家や尼子勝久の軍勢が備中に進入を図ったが、引き返して来た毛利勢に撃退された。なお、井上氏は毛利氏の山陽方面での作戦を主に担当した小早川隆景の有力な武将であり尼子、大友氏との戦いや石山本願寺への兵糧搬入などに功績のあった人物である。また別名「大原竜王」とも言われ、のちに干魃の年には地元の農民たちがこの城址に集まり、連日連夜あかあかと薪を焚きながら雨乞いを行い、農作物の被害を最小限に食い止めたといわれている。
--- 『鳶尾城跡案内板』より ---
…と、こんな歴史があります「鳶尾城古城址」のようであります(^.-)☆
では、銀寿観世音菩薩にお詣りです(^-^)//"
銀寿観世音菩薩へのお詣りを終えますと、鳶尾城古城址・櫓台を見てみます事に…
WEB上で、「鳶尾城跡」を検索してみますと、こんな記載が…
◆鳶尾山城
築城年代は定かではない。周防の大内義隆によって築かれ、井上伯耆守春忠が城代として在城していたという。その後、井上春忠は毛利元就の武将小早川隆景に従っている。
鳶尾城は虚空蔵山の東の峰から南東に伸びた尾根の先端頂部に築かれており、現在は公園として整備され、主郭の一角に銀寿観音菩薩礼拝所が祀られている。
観音菩薩のある所が主郭で北端には櫓台を模した建物がある。ここから南尾根に二段の削平地が付いている。尾根の南端には堀切はなく、北背後も駐車場になっており堀切があったかどうかはわからない。
・井上伯耆守春忠(人物往来社干「小早川隆景の人物事典」by 館鼻誠氏著)
隆景家臣。奉行人筆頭。又右衛門尉。伯耆守。父は井上賢明。毛利家臣井上元盛の次男秀俊の養子となる。隆景の沼田小早川家相続に従い、隆景の側近として活躍。永禄11年(1568)の正月座敷配りでは上座から八番目に小早川山門と同じように「殿」の敬称をつけて記される。
天正年間(1573)の座敷配りでは殿の敬称はなくなるが、8〜10番目前後にすわり、同22年(1594)、隆景が秀吉に謁見するために上洛したときも従った。隆景の筑前支配でも「御奉行衆」の中核として博多の復興事業や名島城下の建設を指揮し、名島城内に屋敷も与えられた。隆景の死後、毛利家臣に編入されたが、毛利家臣から外様視されるのを嫌ってか、慶長六年(1601)、子息の景貞とともに出奔。次男は三原に土着し、江戸時代に三原の東町の町年寄を務めて角屋を名乗った。
…と、こんな歴史がありますようですネ。
それでは、今から、立入禁止のチェーンがありますけど、『里庄 美しい森』に向かって散策です(^.-)☆
里庄町のホームページには、こんなお知らせが…
◆里庄美しい森 閉鎖のお知らせ
里庄美しい森は、平成31年3月31日をもちまして閉園とさせていただきます。
長年のご利用、誠にありがとうございました。
・閉園理由
平成30年7月豪雨災害により進入路が崩壊し、利用が出来なくなりました。
閉鎖期間中に、イノシシがキャンプ場や遊歩道に出没し、施設の被害が発生しており、再開した場合、多額の復旧費用やイノシシが利用者と遭遇する危険性があるため、閉園としました。
…と、こんな事情で閉鎖となりましたようですねぇ〜
イノシシとの遭遇はイヤですけど、ササッと短時間で散策してみたいと思います(^-^)//"
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