2019/09/07(土) 福山城「鐘櫓」特別公開に参加 <2/3> |
鐘櫓下から天守北側にヤッて来ますと、ここで次のクイズの出題です(^.-)☆
★問5
福寿会館は誰の邸宅として建てられたでしょうか?
@森下博--森下仁丹の創設者で広告王と呼ばれる A林半助--鞆の実業家、鞆軽便鉄道初代社長 B武田五一--関西建築界の父と呼ばれ、問3の台座は氏の作品 C安部和助--鰹節王と呼ばれた削り節の考案者
正解:C
この後、水野勝成公の像の前に移動し、次のクイズ。
★問6
愛知県刈谷市で2013年に刈谷城築城480年マスコットキャラクターが作成されました。このキャラの名前は何でしょう?
@かつなりくん Aかっつん Bろくざえもん Cかつなり〜ん
正解:@
◆水野勝成
水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。
・郡山藩主
元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領に睨みをきかすために、勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人は多かったらしく、勝成自身は20〜30万石の知行を期待していたが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている。
郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の妙瞬尼が亡くなる。
・初代福山藩主
元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。
福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。
家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。
水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。
寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。
次は、天守の西側の石崖横へ。ここでは、こんな問題の出題です。
★問7
慶応4年(1868年)、長州軍は福山城を砲撃しました。消失前の天守にはこの時の弾痕が残されていましたが、どこにあったでしょう?
@1階北側 A1階西側 B2階北側 C2階西側
正解:A
福山城の北側は、福山城全体を通して北側の守りが手薄で、その弱点からの砲撃を防御するために、厚さ3ミリほどの鉄板を張り巡らせていたようですネ。
それでは、御湯殿に向かいます。御湯殿では、こんな出題が…
★問8
本来の御湯殿は本丸表向、奥向、それぞれに1ヶ所ありました。このうち表向の御湯殿は何処にあったでしょうか?
@月見櫓の横 A鏡櫓の横 B鐘櫓の前 C本丸苑池の裏
正解:A
う〜ん、相変わらず難解な出題が続きます(^-^;
WEB上で「福山城天守閣」を検索しましたら、こんな記載が…
◆現復興天守の問題点
福山城天守は、いわゆる「城郭復興ブーム」に再建されている。本来の天守は太平洋戦争末期、1945(昭和20)年8月8日の空襲により焼失しており、現在あるのは、1966(昭和41)年秋に市制50周年記念事業として、月見櫓、鏡櫓、御湯殿と共に復元されたものである。しかし、その形状は、焼失前の資料も豊富にあり比較的正確な復元が可能であったにもかかわらず、忠実とはいえない。それは次のような理由によると思われる。
第一には、鉄筋コンクリート(RC)製であること。これは、当時の建築基準法では天守のような高層建築を木造で造ることができなかったため、そもそも選択肢がなかったからではあるが、これにより、黒塗りの窓枠 が漆喰風(白塗装)に塗られることとなったようで、全体の印象が焼失前とかなり異なることになった。ただ、コンクリート建築であっても、部分的に材質を変えるか、塗装方法を変えるなどすれば、旧状に近い状態を再現することはできたはずだが、そうした方法が採られなかった理由については下記で述べることにしたい。
第二には、美観の問題、現在の天守は復元の正確さよりも風情が重視され各所が改変されている。具体的には、望楼部の突上戸(雨戸)、北面の鉄板張り、窓の左右非対称や大きさ、壁面の海鼠塀部分、などが異なっている。これらは福山城天守の特徴といえる部分であり、これらが再現されないことで福山城は「らしさ」を失ったといえるが、好意的に捉えれば洗練されたともいえなくはない。
第三には、当時の文化財に対する意識の違い。上記に示した理由も結局はここに集約される。福山城も含め、太平洋戦争で焼失した天守は全部で7つあるが、水戸城を除き、いずれも1958〜1966年の間に鉄筋コンクリートで「復元」されている。これは、ちょうど高度経済成長(1950年代半ば〜)への移行期に重なる時期であり、これら天守の復元が戦後の復興を象徴する意図の強いことがわかる。一方で、多くの城郭において開発(破壊)が進むのもこのころからであり、言うまでもなく、時流は保存よりも開発が優先されていて、近世城郭の文化財としての価値はあまり問題にされなかった。
つまり、この時代の復元天守は、いわば復興記念建造物であり、端的にいえば、城の体を為していれば忠実性はさほど問題とはされていない。実際、下表に示すように、その時期に復元された天守は忠実である方が少数となっている。しかし、その中でも最も 旧状と異なるのが、福山城天守であり、厳密には「復元」ではなく「模擬」の天守に分類される形状となっている(更にいえば、月見櫓、鏡櫓も忠実な復元ではない)。
ところで、現在はこうした歴史的事実に反する復元はできなくなっている。というのは、文化庁は歴史的建築物の復元にあたり、以下の三要件を課しているからである。
1.考古学調査などによって、柱の穴そのほかの遺構が確認できること。
2.歴史的資料として、指図(設計図)が残されていること。
3.古い写真などによって、かつての外観がわかること。
この条件に当てはめれば、資料の乏しい福山城天守や櫓の再建は今日では困難なのも、また事実ではある。
御湯殿の次は、いよいよ「鐘櫓」へ向かいます。
筋鉄御門を正面に見ながら、伏見櫓と鐘櫓の間の広場へと移動です。
◆御湯殿
京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。
昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。
現在は貸会場として利用されている。
◆筋鉄御門
福山城本丸の正門で西向きに建っている。元和8年(1622年)伏見櫓と共に伏見城から移築したものといわれている。
下層の各柱には根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き二枚建てで12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾っている。
上層は正面左端に出入口を設け、正面中央・右端と南側にそれぞれ格子窓を設け、内部床は拭(ぬぐい)板敷き、小屋梁天井となっている。
外部は柱・土台・長押の木地型を出し、たるき・屋根妻・破風板・懸魚にいたるまですべて白亜塗りとしている。
◆伏見櫓
この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。
これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。
広場では、鐘櫓の見学前に最後のクイズ出題となりました。
★問9
筋鉄御門の規模は次のうちどれでしょう?
@9×3間 A9×4間 B10×3間 C10×4間
正解:B
★問10
廃城後、鐘櫓の裏に建てられた施設は何でしょう?
@招魂社--戦後、備後護国神社に合祀される A遙拝所--鐘櫓の場所にあった B勇鷹神社--備後護国神社の旧称 C忠魂碑--黄金水井戸北側にあった日露戦争の祈念碑
正解:@
これで凡ての出題が終わりましたけど、実に難解でありました。
GONsanが分かりましたのは、問1・問6の2問のみ(^-^;
全問の正解者はおられませんでしたけど、10問の内6問正解までの方々が見事、賞品をゲットしておられましたネ(^-^)//"
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