2019年11月〜2020年01月間の話題・景観(^.-)☆ <4/4> |
■2019年12月21日16:53
可哀想に…メジロが一羽、亡くなっておりました…
本日・土曜日、所用で嫁さんは午前中に不在。正午前頃にタバコを求めてコンビニから戻って来ますと、我が家の駐車場にアカメの枯れ葉が結構散乱(^-^;
毎日、朝晩、嫁さんが掃き掃除していますのですけど、車が出払っていますとヤケに眼に付いてしまいます(^-^;
で、珍しくGONsanも掃き掃除。そぅしていましたら、駐車場の片隅にメジロが静かに横たわっておりました。
こんな形で、年に一度はスズメが横たわっています我が家ですけど、う〜ん、メジロは初めてですネ。老衰なのでしょうか…
それなりに丁重に…とは言いましても、ビニール袋に収納、そして破棄となるのですけど(^-^;
メジロの寿命は、どの位なのでしょうねぇ〜
いつものように、WEB上で検索です。
◆メジロ
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
メジロ(目白・繍眼児、学名 Zosterops japonicus)はスズメ目シジュウカラ科メジロ属の鳥の一種である。
・形態
全長約12cmで、スズメよりも小さい。翼開長は約18cm。緑がかった背と暗褐色の羽を持ち、雌雄同色。目の周りの白い輪が特徴であり、名前の由来ともなっている(なおメジロ科に属する鳥は英名でも “White-eye”と呼ばれ、また中国語名では「繍眼鳥」と呼ばれ、やはり名前の由来となっている)。室町時代からメジロの名で知られている。昔は「繍眼児」という漢字が用いられていた。
日本で見られる野鳥の中では、ミソサザイ・キクイタダキに次いで最も小さい部類に入る小鳥である。
・分布
東アジア(日本、中国、朝鮮半島、台湾、海南島)から東南アジア(ベトナム、タイ、フィリピン)にかけて分布する留鳥または漂鳥。
日本では冬季の寒冷地を除く全国で、低地から山地にまで広く分布する。市街地の緑地のある公園などでも見られる。
なお、それ以外の地域(ハワイ諸島等)で見られるものは、主にペットとして、あるいは害虫駆除のためにつれてこられたものである。
・生態
花の蜜を大変好むため花期に合わせて行動し、春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動するものもいる。特に早春はツバキや梅の花に群がる様子がよく観察され、「チー、チー」という地鳴きで鳴き交わす様子がよく観察される。花の蜜を好むことから「はなすい」、「はなつゆ」などの地方名がある。ソメイヨシノが開花すると、ヒヨドリや雀と共に花に群がってくる。
非繁殖期は山地から平地に移動し、群れで行動することが多く、カラ類と混群を形成することも多い。繁殖期は番いで分散し、2羽で鳴き交わしながら花から花へと飛び回る様子がよく観察される。睡眠時は群れ全体でかたまりとなって枝にとまる習性があるため、夕暮れ時になるとかたまりの中心にわれ先に割り込もうとするメジロの姿を観察することができる。
冬季には、アシ原で観察されることもあり、アシに着いた昆虫を採食していると思われる。
・ウグイスとの混同
本種とウグイスは両種ともに春を告げる鳥として親しまれていたこともあってか、時期的・場所的に重なる両種は古くから混同されがちであった。
前述のとおり、メジロは梅の花蜜を好み、早春には梅の花を求めて集まってくる。また比較的警戒心が緩く、姿を観察しやすい。
いっぽう、梅が咲く頃によく通る声でさえずりはじめるウグイスは警戒心がとても強く、啼き声は聞かれても姿を現すことはあまりなく薮の中から出ることは稀である。またウグイスは主に虫や木の実などを食べ、花蜜を吸うことはめったにない。
また、そのウグイスとメジロの混同を示すものとして「鶯色」がある。ウグイス色と言った際に、ウグイスの灰褐色(オリーブ色に近い)を想像する人もいれば、メジロの緑色に近い色を想像する人もいる(旧国鉄の黄緑6号など)。
なお、古来より春を告げる言葉として「梅に鶯」があるが、これは梅の花に鶯の声を添えた風情を意味し、日本画で梅の枝にメジロを描くのとは意味が異なる。
・観察
メジロは甘い蜜を好み、また里山や市街地でも庭木や街路樹などの花を巡って生活している。そのため昔から人々に親しまれた鳥である。現在も、切った果物や砂糖水などを庭先に吊しておくことでメジロを呼ぶことができ、野鳥観察において馴染み深い鳥の一種である。エサ場でヒヨドリがメジロを追っ払うのもよく見かける光景である。
またメジロは比較的警戒心が緩く、頻繁に鳴き交わしつつ群れで行動するため、慣れた人だと口笛で(歯笛の感覚で吹く)仲間がいると思いこませ、群れを呼び寄せることもできたという。
・目白押し
メジロにはお互いに押し合うように、ぴったりと枝に並ぶ習性がある。このことから、込み合っていることや物事が多くあることを意味する慣用句として「目白押し」がある。また、縁台に一列に並んで腰を掛け肩を左右に押し合って端の者を順々に押し出す遊戯として「目白押し」がある。
…と、こんな「メジロ」のようでありますけど、メジロの寿命の記載は有りませんでしたネ(^-^;「メジロの寿命」で検索してみましたら、うん、うん、有りましたネ(^.-)☆
◇メジロの寿命
メジロの寿命は野生下では3〜4年と言われています。ある調査では6年11ヵ月生きたメジロが確認されたとの報告もあります。飼育下では7〜8年ほどで、最高寿命は10年ほどだそうです。
…との事ですから、う〜ん、やっぱり寿命でしたのかも…
GONsanは、「メジロ」と言いますと、昨年でしたか…お亡くなりになられましたけど、ご存命中の「Msan」を思い出してしまいます。
同じ町内会に所属し、既に10年ばかり前の事となってしまいますけど、町内会のお世話でご一緒させて頂きました時期がありました。その際には打合せで何度かご自宅に伺う事がありまして、何度目かにお伺いしました際に、「あんたはカメラが好きだから、今もカメラを持って歩いているだろう。コーヒーでも飲んで行きんさい。イィ写真が撮れるから…」と、まず、GONsanの飲み物を準備して頂き、その後でご自宅の庭に常設のテーブルに、オレンジ・カステラ・飲み物・食パン…を準備され設置。そして、暫し、GONsanと談笑となりました。
何の準備なんだろう?…多分、小鳥がヤッて来ますのかも…と勝手に想像しておりましたら、予測通り数羽のメジロが飛来です。
その際に撮りました画像の一部がこれなんです(^.-)☆
Msanは、プロの写真屋sanで、それを存知あげてはおりますけど、GONsanは一度もMsanと写真・カメラの話しをしました事はありません。が、一度だけ指摘されました事が(^-^;
この時期でしたか…世の中を左右逆に眺めたら楽しいかも…と、撮りました画像をミラーリング加工(この表現が適正なのかどぅか分かりません)で左右逆にし、楽しんでいました時期がありました。勿論、そんな画像はGONsanのホームページにも掲載しませんけど、1枚だけ、錯誤でミラーリング加工の画像をホームページ上に掲載していましたようです。その、たった一枚をMsanが、「左右逆だな、あの画像は…」とご指摘。これには驚きまして、後でご指摘の画像を確認しますと、確かにミラーリング加工の画像が、1枚ですけど混入しておりました(^-^;
左右逆と言う事が、一見、仲々分かりません画像で、何度見直しましても、GONsanには、何故、Msanが気付かれたのだろう?…と、未だに不思議。
理由はともかく、ド素人とプロの差は実に大きい事を痛感しましたのが、今では懐かしい想い出になってしまいました…以降も、Msanとは写真・カメラ関連の会話をします事は有りませんでしたネ。
まぁそのような事はさて置きまして、嫁さんが戻って来ましたので、「メジロが横たわっていた…」と報告しますと、「うん、知ってた。金曜日の朝、掃き掃除してた時に見てた…」との事。「何で、片付けなかったの?」には、「気持ち悪いから…私が放っていても、気付いて片付けて貰えると思ってた(^-^)」ですから、苦笑のGONsanでありました(^-^)//"
■2019年12月26日23:24
軽四トラック…GONsanも欲しいですねぇ(^.-)☆
同じ職場に勤務しておりましても、普段、仲々会えません同僚に、本日、久し振りにバッタリ遭遇(^_^)v
ふ〜ん、今日は、軽四トラックで出社のようですねぇ〜
軽トラにアルミホイールですから、一目で車好きと感じられてしまいます(^.-)☆
車内を覗きますと、シフトレバーは「水道蛇口」を使用ですから笑ってしまいます(^-^)
こんなGONsanを、少し離れた場所から見ておられましたのでしょうねぇ〜「写真に撮りたそうな顔をしているなぁ(^-^)撮ってもイィぞぉ〜」ですから、お断りします理由もありませんし、ラッキー\(^o^)/喜んで、即時、3枚ばかり撮らせて頂きました(^_^)v
「こんなシフトレバーは、市販されてるの?」には、「売ってない、自分で作った…」との事でありました。何年か前に、こんな軽四トラックの後方のナンバープレート上部辺りに、蛇口を付けています車を見掛けた事はありますが(^-^)
とにかく、車内は普通車並みの装飾でありました。
シートカバーには、「バナナ果実問屋」と「冨士味醤油」と記載の前掛けを使用です。WEB上で検索しましたら、「バナナ果実問屋」は特に出ては来ませんでしけたけど、「フジ味噌醤油梶vは有りましたネ。
農作業をしますのに、こんな軽トラですと楽しいかも(^-^)
我が家にも、こんな軽トラがありましたら便利がいぃなぁ〜と思うのですけど、維持費を考慮しますと、とても手が出ませんから、ただ眺めますのみ。
例え軽トラでありましても、ボディーにはしっかりワックスがけで輝いておりますし、大切に乗っておられます様子が伺え、拝見していますだけでも楽しいものでありました(^-^)//"
■2019年12月31日13:39
12/28(土)は、芦田川河川敷で孫達と凧揚げでした(^.-)☆
12/28(土)の午後は、芦田川河川敷で孫達と凧揚げを楽しみました(^.-)☆
…と言いますよりも、「GONsanが凧揚げを楽しみました」と言います方が適切なのかも分かりません。
12月の上旬でしたか…「凧揚げしよう…」と言われました時には、まだ時期的に凧揚げの雰囲気でもありませんで「年末にしよう」とGONsan。で、いよいよ年の瀬も押し迫り、孫達がヤッて来ました12/28(土)に声を掛けますと、今一、乗り気薄の孫達。
ふ〜ん、凧揚げしないのか…と思いましたら、少し間を置き「うん、行く、行く!!」ですから、この暫しの間は何なんだ…と思いながらも、気にしない事に(^-^)
河川敷に到着しますと、「じいちゃん、水面がキレイで波が無いから凧は揚がらないかも…」と姉の方ですから、河川敷到着と同時に川面の波で風の有無を確認の姉に、チョッと感心のGONsanです。
確かに到着直後の河川敷は微風状態でしたけど、午後からは結構風も出て来ます芦田川。
暫くは凧を揚げますのに四苦八苦でしたけど、間もなく凧揚げには絶好の風が発生。この日は、河口堰(南)から水呑大橋(北)方向の風でありました。
つぃさっき誉めました姉なのに、こんな環境下で、水呑大橋方向に走りますから苦笑してしまいます。
「走るのが逆」と叫びますと、ヤッと理解(^_^)v
弟の方は連凧を選択。
姉の動きを暫し観察しておりましたから、難なく凧は揚がりましたけど、重さがありますから姉の高さには及びません。姉の洋凧は頭上の真上に揚がっていますから、見上げますのに少々しんどさが(^-^)
弟の連凧は、丁度、見易い高さです(^.-)☆
このまま凧揚げを楽しみますのかと思いましたら、まずは「じいちゃん、持っといて」と姉。続いて、「じいちゃん、ボクのも…」と弟です。
二人とも何をするのかと思いましたら、河川敷のこの場所に存在します3種類の遊具で遊び始めましたから、またまた苦笑のGONsan。凧揚げで遊んで欲しいのに(^-^;
それにしましても、わずか3種類しかありませんこのシンプルな遊具で、二人が飽きもせず延々と黄色い声を飛ばしながら遊んでくれますから、感心するやら呆れるやら(^-^;
まぁその間を、GONsanも両手で凧揚げを延々と楽しんでおりますから、どっともどっち\(^o^)/
河川敷を散歩しておられます方々にも、凧揚げは楽しそうに見えますのかも…どなたも、和やかなお顔で立ち止まり、暫し見上げておられますから(^.-)☆
そして、その後で、孫達にも和やかな笑顔を(^-^)
孫達は凧揚げを放って、ジジィのGONsanが、懸命に凧揚げしているのですから、和やかなお顔は苦笑なのかも分かりませんねぇ〜
ソロソロ凧を降ろしたいのではありますが、両手が塞がっておりましては、凧糸も巻けません(^-^;
声を掛けても聞き耳持たずの二人です。
傍で見ていますと、2歳違いの姉弟と言うものは、兄弟と言いますよりも友だち感覚なのかも分かりませんネ。お互いが同じように行動出来ますから、一緒に遊びますのに一層楽しさがありますのかも…
再度、声を掛けますと、「後で写真を撮って、凧を降ろすのを手伝うから…」ですから、ヤッと凧揚げから解放されます(^_^)v
遊具で遊びますよりも、凧揚げの方が楽しいように思うのですけどねぇ(^-^)//"
■2020年01月03日15:29
年末・お正月三が日は、お寺・お墓詣りのGONsanです…
例年の事ではありますけど、年末、そして、お正月三が日は、嫁さんとお寺・お墓詣りのGONsanです。
三が日最終日の本日・1/3もまた、お寺・お墓詣りとなりました(^.-)☆
お寺・お墓は山側に存在しますから、歳を重ねますごとに、お寺・お墓詣りがキツくなりますような気も致します(^-^)
まぁ、GONsanばかりでなく、大概の皆様が同様なのだと思います。いゃいゃ、GONsanのみかも分かりません(^-^;
嫁さんがお寺の本堂で手を合わせています間、GONsanは境内から我が町を眺望です(^_^)v
この三が日はいずれも天候に恵まれまして、新しい輝かしい新年を迎えますのに相応しい好天が続きました。風も無く冷たくもありません。と、言いますよりも、お墓まで上がりますと、多少汗ばんでもしまいます。
ご先祖様の墓前で手を合わせました後は、またまた我が町を眺望となりました。
いつもの事ですけど、墓地からの眺望は最高ですねぇ〜
墓地から下ります際には、途中、観世音菩薩にもお詣りです。
昨日は、観世音菩薩の参詣に数人訪れておられまして、実に珍しく順番待ちでありました。こんな事も珍しいのですけどネ。
観世音菩薩とお別れしますと、鐘楼にと向かいます。
お墓詣りには必ずここを通りますのですけど、鐘楼脇の建物の縁側に、こんな文書が…今日まで全く気付きませんでしたけど…
令和元年11月12日付け・令和元年12月付け・令和2年1月1日付け…の三つの文書が…
「妙顕寺を守る会」「妙顕寺の再興を願う会」…とは、どんな会なのでしょう…
文書に眼を通しますと、少々眉をひそめる内容でありました。
随分前に、お金の使途不明が取り沙汰されていますような事を耳にしました事がありますけど、以降は何にも分かりませんGONsanですから、この文書の内容は、その時の問題なのだろうか…それとも、新たな問題が生じたのだろうか…と、推察するしか無いのですけど…
この三つの文書の内の一つは「元旦付け」ですから、少々根深い問題なのかも…
う〜ん、お正月早々にイヤな文書に眼を止めてしまいましたねぇ〜
それにしましても、妙顕寺は由緒有りますお寺なのでしょうから、いつの日か「日蓮宗由緒寺」に名を連ねて貰いたい…由緒寺の仲間入りをして貰いたい…こんな想いがあるのですけど、こんな文書が公然と置かれていますのですから、由緒寺に名を連ねますのは、ほど遠いようですねぇ(^-^;
哀しいですねぇ〜
ですが、それにしましても、「妙顕寺を守る会」「妙顕寺の再興を願う会」…とは、どんな会なのでしょう?
「総代会」があるのですから、何か問題が生じていますのでしたら、総代会で解決なさるのが妥当とは思うのですけど、この文書が取り除かれずに、ここに置かれたままなのも気になりますネ。11/12(火)からは1ヶ月半も過ぎていますのですから…
何か難しい内容なのかも…
とにかく、GONsanのような凡人には実に不可解な文書に感じられてなりません。
いゃあ、お正月早々に、実にイヤな文書に眼を止めてしまいましたねぇ(^-^)//"
■2020年01月04日19:00
GONsanの歳となりますと、喪中のご案内もそれなりに沢山届きます(^-^;
正月三が日も過ぎ去りますと、そろそろ頂いた賀状を元に住所録を整理しなくては…
その際に、改めて眼が止まりますのが喪中のご案内なんです。GONsanの歳となりますと、毎年、喪中のご案内もそれなりに沢山届きます(^-^;
昨年は多かったように記憶しておりますけど、今年はそれほどまでには…でも、20枚ばかり届きましたでしょうか…
年賀状の購入は、毎年、必要枚数ギリギリで購入しますので、何年か前までは元旦に届きました賀状に眼を通しておりますと、慌てる事もありました。差し上げておりません方から届きますと、急いで年賀ハガキを求めます事も多々有りました。
が、今では、届きました喪中のご案内の枚数分が使用しないまま残ります事に…
それに近年は、頂きました賀状に「古希を迎えましたので、賀状をお届けしますのは今回限りで…」の文言が多くなりましたねぇ〜
で、改めて古希を調べてみましたら、WEB上にはこんな記載が…
◆古希は何歳?意味や由来とは?
・古希のお祝い
長寿のお祝いは満60歳の還暦から。ただ、最近は平均寿命も延びているので、70歳の古希(古稀)からはじめるのが一般的になってきました。
・何歳で祝う?古希の意味と由来とは
「古希(古稀)」の読み方は「こき」。70歳のお祝いです。中国・唐の詩人である杜甫の詩の一節「人生七十古来稀なり」という言葉に由来しています。実はこれには「酒債は尋常行く処に有り」という前文があります。「酒代のつけは私が行くいたるところにあるが、70年生きる人は古くから稀である」という意味。つまり、いまのうちにたくさん飲んで楽しんでおこうという歌です。
・古希のお祝いの仕方と時期
長寿のお祝いは満60歳(数え年61歳)の還暦からはじまりますが、最近の60歳はみなさん若く長寿のお祝いが本格化するのは、古希あたりからです。
還暦の満60歳以降は、数え年で祝うのがならわしです。古希は満69歳(数え70歳)にお祝いします。ただ、翌年に満年齢でお祝いしても問題はありません。
お祝いの仕方としては家族や親族、ときには友人も集まります。レストランで食事をしたり、温泉などへ旅行に行ったりすることも多いようです。祝う時期は正月、誕生日、敬老の日などが一般的ですが、みんなが集まりやすいタイミングでよいでしょう。
・古希の色は何色
長寿祝いにはそれぞれテーマカラーがあり、その色にちなんだものをお祝いの品として贈ることもあります。70代のテーマカラーは紫。紫に近い藍色もお祝いの色として使われます。70代のお祝いには古希のほかに、77歳の喜寿(きじゅ)もあります。
・古希におすすめのお祝いプレゼント4選
これまでの感謝やこれからの健康を願う気持ちを込めて贈りたい古希のプレゼント。紫色の座布団が贈られることもありますが、身に付けるものや日常使いしやすいもの、気持ちのこもったものが人気です。
…との事であります。つぅ事は、GONsanなんぞは、とっくに古希は過ぎ去って(^-^;
う〜ん、年賀状への対処ですか…
GONsanに届きます賀状には、70代、80代の方々は結構おられますし、この方々を差し置いてGONsanが古希を理由に賀状とお別れします事は、とても出来ません(^-^)
両腕が動かなくなるまでは、止めるわけには行きませんのかも(^.-)☆
それに、まだ止めようとの想いも生じませんから(^-^)
まぁとにかく、毎年、お正月に賀状を拝見しておりますと、色んな想いが生じますねぇ〜そんな歳に至りましたのですねぇ(^-^)//"
■2020年01月04日16:41
んっ、正月早々に友人特派員から画像の送信が\(^o^)/
元旦に友人から、こんな賀状が届いておりました(^.-)☆
うん、うん、久しくサボッておられます特派員業務を、本年は真面目に再開して頂けますようですねぇ(^_^)v
とは言いましても、正月三が日が過ぎ去りましても何にも届かない(^-^;
きっと、お正月にはご家族でどちらかにお出かけとは思うのですけど…催促しますのも気が引けるし…はてさて、どぅしたもんでしょう…と思案しておりましたら、やぁやぁ届きましたねぇ(^.-)☆
早速、拝見しますと、ふ〜ん、防府天満宮に出掛けられましたか(^-^)それと、「いろり山賊」の画像も…
あぁそぅでしたネ、友人の娘さんは、今春は大学進学でありました。と言う事は、合格祈願での防府天満宮参拝となりますネ。
◆防府天満宮とは?
防府天満宮は山口県防府市にあります。学問の神として菅原道真公を祀っており、日本で最初に創建された天神様と言われています。また、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで日本三大天神とも言われています。
防府天満宮に行くと、どのようなご利益を得ることが出来るのでしょうか。今回は、歴史や行事及びご利益について学び、防府天満宮についての一緒に理解を深めていきましょう。
・防府天満宮の成り立ち
防府天満宮は日本で最初に創建された言われており、菅原道真公をが亡くなった翌年に創建されました。かつては、「松崎天満宮」「宮市天満宮」或いは「天満宮」と称されていました。しかし、1873年に県社に列格し「松崎神社」と改称しました。
戦後の1953年には「防府天満宮」と再び改称されました。菅原道真公をお祀りした神社は、全国に約1万2千社あります。道真公と梅と牛にまつわる伝承が数多くあります。
そのことから、全国の天満宮の境内には梅が咲き誇っています。また、牛は天神様のお使いとされており、臥牛が天神様の鎮まる場所を表すシンボルとなっているのです。
学問の神様で有名な防府天満宮ですが、なぜ学問の神様と言われているかご存じでしょうか。防府天満宮が学問の神様であると言われる理由は、祀られている菅原道真に関係があるのです。
菅原道真は、代々学者の家系に生まれました。道真は、幼少時から漢字を学び詩歌で才能を発揮し、神童と呼ばれていました。更に、勉学に励んだ道真は、18歳で文章生の試験に合格し、その中でも優秀な2人が選出される文章業生に選ばれたのです。
その後、学者として最高位の文章博士に就きました。道真が学問に優れていた為、そのご利益をあやかろうと、毎年多くの受験生が合格祈願に訪れるのです。
・日本三大天神のひとつ!
〜天神、〜天満宮と呼ばれる神社は、学問の神様である菅原道真を祀っている神社です。全国に約12000社あると言われています。その中で、日本三大天神と呼ばれる神社をご存じでしょうか。
1つ目は、福岡県太宰府市にある「太宰府天満宮」です。初詣には、全国の受験生を約200万人が訪れる神社となっております。2つ目は、京都府京区にある「北野天満宮」です。太宰府天満宮と同様に北野天満宮も、特に受験生に人気があります。
また、北野天満宮には約1,500本の梅が植えられており、こちらも人気です。そして3つ目は、今回ご紹介している「防府天満宮」となります。
・天神さまってなに?
天神様とは、誰のことを指している言葉かご存じですか。天神様とは、天満宮の祭神である菅原道真を敬い親しんで使われる言葉になります。
道真の才能を恐れた菅原時平によって九州へ左遷された後に、道真は無念の死を遂げます。道真の死後、都では災害などの天変地異が起きました。これらの出来事は、道真の祟りとして人々に恐れられました。
道真の怒りを鎮める為に、道真を「天神様」としてお祀りしたことが始まりと言われています。そして、道真公を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まりました。時の経過と共に災害の記憶は風化し、現在では学問の神様として知られています。
・防府天満宮の御祈願祭
防府天満宮のご祈願祭では、合格祈願・七五三・厄除など様々な種類の御祈願をすることが出来ます。また、神職がお伺いする出張祭典というものがあり、地鎮祭や上棟祭の御祈願もお願いすることが出来るのです。
予約は必要なく、午前8時半から午後4時までの受付時間内に伺えば御祈願してもらえます。但し、団体祈願は予約が必要となります。ここでは、防府天満宮へ足を運んだ際に、ご祈願して頂けるご祈願の種類についてご紹介します。
・防府天満宮で合格祈願をしよう
全国各地から多くの受験生が合格祈願の為、防府天満宮へ訪れます。防府天満宮は、学問の神様である藤原道真公をお祀りしています。志望校の合格祈願・資格や就職試験合格の祈願祭を受け付けています。
御祈願の流れは、御祈願受付所にて受付を済ませます。受付完了後は、控え室にて巫女さんの案内があるまで待ちます。御祈願祭が終わったら、神職からお守り・お札を受け取り次第終了となります。
御祈願終了後は、合格した先輩方が書いた合格御礼絵馬を見て気持ちを高め、ラストスパートへの力をチャージしてみませんか。絶対合格するという気持ちが強くなることでしょう。
…と、こんな記載がWEB上に(^.-)☆
友人ご家族の皆様、シッカリ合格祈願をされましたのでしょうねぇ(^_^)v
そぅそぅ、防府天満宮の「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」は大変美味しいのですけど、これも皆さんでシッカリ美味しく戴かれましたでしょうか(^-^)
もぅ20数年も昔の事となりましたけど、GONsan一家が徳山市に暮らしていました時には、梅ヶ枝餅を求めて、わざわざ防府天満宮にお詣りしておりましたネ(^.-)☆
それはさて置きまして、「いろり山賊」の画像は、これは「玖珂店」なのでしょうネ(^-^)
と言う事は、帰路に立ち寄り皆さんでお食事ですねぇ(^-^)
つぅ事は、わざわざ国道2号線を走行しておられると言う事は、何処かにお立ち寄りですねぇ〜もっと画像が期待出来ますかも(^_^)v
楽しみに待っています事に致します(^-^)//"
■2020年01月05日23:33
んっ、正月早々に友人特派員から画像の送信が\(^o^)/(2)
うん、うん、また友人から画像が届きましたネ(^_^)v
わざわざ国道2号線を利用されましての帰路は、岩国城・錦帯橋に立ち寄られます為でしたのですねぇ(^.-)☆
◆岩国城
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
岩国城(いわくにじょう)は、山口県岩国市横山に存在した日本の城(山城)。
・概要
江戸時代初期は岩国領の居城となり、山城である横山城は本丸を中心として南西に二ノ丸、北東に北ノ丸、ほかに水の手などの曲輪が配置され、麓には、「御土居」が築かれた。本丸には4重6階の天守などを上げていたが、廃城後は天守は破却されて土居が陣屋として存続した。城下と城を隔てる錦川には錦帯橋が架けられ、特徴的な景観を作り出している。城下町はこの錦帯橋の道筋を基準に整然と整備された。
現在、御土居跡は、吉香公園(きっこうこうえん)として整備され、横山山頂には再建天守がある。
・歴史--沿革
-- 江戸時代 --
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利家は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがあるとする説があるが、実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していたが、吉川家にはそれがなかったなどの事情があったとされている。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)にようやく独立の藩として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。
-- 近現代 --
1885年(明治18年)居館「土居」跡が吉香公園となり、堀端に絵馬堂である錦雲閣(きんうんかく)が旧藩時代の櫓を模して建造され、現存している。また、藩政時代の建造物として寛政年間(1789年-1800年)に建てられた昌明館(7代当主経倫の隠居所)の長屋が現存している。
1962年(昭和37年)3月21日、本丸南側に「天守構造図」という絵図を元に鉄筋コンクリート構造によって復興天守が建てられた。設計は、藤岡通夫(東京工業大学教授)による。本来の天守台は約30m離れた本丸北側にあったが、麓からの見栄えを重視して建設された。現在見られる、本来の天守台は平成7年(1995年)に発掘復元されたものである。山上には、他に石垣や堀の遺構がある。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(74番)に選定された。
2012年(平成24年)現在、山上と吉香公園のある山麓はロープウェイ(岩国城ロープウェー)で結ばれており、2013年4月から岩国市の指定により錦川鉄道が運営管理している。
◆大釣井井戸
この大きな井戸は築城と同時につくられたもので、非常時の武器弾薬などを保管したり、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口だとされています。
◆錦帯橋
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋である。
・概要
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし))などとも呼ばれていた。「錦帯橋」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られている。石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在そのほとりには錦帯橋友好の石碑が建立されている。
1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、現在の橋は1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されたものである。
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。
・歴史
--- 創建時 ---
錦帯橋は1673年(延宝元年)に、岩国藩主吉川広嘉によって建造されたものである。
初代岩国領主吉川広家が岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水によりたびたび流失していた。
3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイディアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。
広嘉は、ある日かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。また、明の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。
延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。
なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。
--- 近代以降 ---
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。
1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。
1950年(昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、それまでの戦時体制下で橋の補修がおろそかになっていたことや、前年に米軍が岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどが指摘されてもいる。
翌1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。
1998年(平成10年)5月6日、この橋を軽トラックで渡った3人の男が逮捕された。橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。
2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。
2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4,000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
◆岩国のシロヘビ
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
岩国のシロヘビ(いわくにのシロヘビ)は、山口県岩国市に生息する白蛇である。この白蛇は遺伝によって白化が子孫の代にも受け継がれている。日本国指定の天然記念物(1972年指定)。
・白色の理由
アオダイショウが白化したもの(アルビノ)である。アルビノは、突然変異によってメラニン色素を合成できなくなった生物であり、劣性遺伝のため通常個体との間にできた次世代(ヘテロ個体)では通常体色である。また、体色が白くて目立つため天敵に捕食されやすい。一般には自然下ではアルビノの出現は稀であり、ハツカネズミやシロウサギのように、飼育下で系統をコントロールすることにより維持される。
岩国のシロヘビの場合、人間の飼育下ではないにもかかわらず、高い頻度でアルビノが出現していた。これは、地域の人々が昔からシロヘビを神の使いとして特別で大切なものと扱ってきたのが理由であろうといわれている。
…と、こんな岩国城・錦帯橋・シロヘビでありますようですネ(^-^)//"
■2020年01月05日12:22
昨夜の火災…水呑向丘での発生でしたようですネ…
昨日・1/4(土)のP.M.8:50頃でしたか…風呂上がりで、我が家裏の畑の一角でノンビリと一服しておりますと、消防車のサイレン音が次第に近付いて来ます。
こんなサイレン音は毎晩耳にしておりまして、ふ〜ん、また火災か事故が発生なのか…程度に思っておりました。
サイレン音は、バス通りを田尻・鞆方向へ急行です。ですから、現場は田尻町・鞆町なのだと想像しておりました。
そしてまたサイレン音が近付いて来ます。これも同様に、バス通りを鞆方面へ急行。
そしてまた1台が我が家近くを通過です。
2台…3台…4台…と、結局、12台ばかりのサイレン音の車輌が通過しましたでしょうか…
念のため、我が家のベランダから南方(鞆方向)に眼を向けましたが、何にも火災・事故らしい気配はありませんから、やはり鞆方向に向かわれたのだろう…程度の認識のGONsanでありました。
今朝の朝刊を確認しましたけど、田尻・鞆方面の火災発生の記事掲載はありませんでしたネ。
ですが、結構な数のサイレン音の車輌でしたから、大きな火災だったのかも…
本日のA.M.10:00過ぎでしたか…WEB上で、再度、福山市内の火災を捜してみますと、なんと、昨夜の火災は水呑向丘での火災発生でしたとは、もぅビックリでありました(^-^;
WEB上から昨夜の火災記事を拾ってみますと、
◆福山で住宅が全焼 1人死亡
--- NHK 広島 NEWS WEB 2020/01/05(日) 07時23分 ---
4日夜、福山市で住宅が全焼する火事があり、焼け跡から1人が遺体で見つかりました。
この家に住む72歳の男性と連絡が取れなくなっているということで警察は身元の確認を急ぐとともに火事の原因を調べています。
4日午後8時半すぎ、福山市水呑町の前田昌宏さん(72)の住宅で「2階から火が出ている」と近くに住む人から消防に通報がありました。
消防車6台が出て火はおよそ1時間半後に消し止められましたが、木造2階建ての住宅1棟が全焼し、焼け跡から1人が遺体で見つかりました。
警察によりますと、前田さんは、70歳の妻と2人で暮らしていて、火事のあと前田さんと連絡がとれなくなっているということです。警察は亡くなったのは前田さんとみて、身元の確認を急ぐとともに火事の原因を調べています。
◆福山で民家全焼 1遺体見つかる
--- 2020/1/5 中国新聞デジタル ---
4日午後8時40分ごろ、福山市水呑町、無職前田昌宏さん(72)方から出火、木造2階建てを全焼した。焼け跡から1人の遺体が見つかり、福山西署は、連絡が取れていない前田さんではないかとみて調べている。同署によると、前田さんは妻(70)と2人暮らしで、妻は軽傷を負った。
近所の40代会社員男性は「家の外からバチバチと音がするので出てみると、オレンジ色の炎が燃え上がっていた。火の粉が雨のように降り、燃え移らないか心配だった」と話していた。現場はJR福山駅の南東約5.4キロにある住宅地。
…と、こんな記載がありましたけど、まさか水呑の火災とは全く分かりませんでしたネ…
GONsanと同年代の方がお亡くなりとは…
何もかも失ってしまいます火災の怖さは、充分分かっているのですけど、GONsanくらいの年齢の方でも、突然の火災発生では逃げ遅れてしまうのだ…と、改めて怖さも生じます。
お亡くなりになられました方には、心からご冥福をお祈り致したいと思います。
本日午前中も、「空気が乾燥していますから、火の元には充分ご留意下さい…」と消防関係の広報車が廻っておられました。
我が家も、火の取り扱いには充分留意しませんとイケませんネ…
■2020年01月06日16:42
頂いた賀状を元に住所録を整備しておりまして、またこの賀状に眼が…
昨日でしたか…頂いた年賀状を元に住所録を整備しておりますと、また、この賀状に眼が止まってしまいましたネ(^.-)☆
この方は、もぅ15〜6年ばかり前に同じ職場に勤務しておりました元同僚なんです。
異動で職場を異にして以降は、仲々お会いする機会に恵まれず、賀状のやり取りのみで現在にと至っております。
今年届きました賀状には、「映画の題字を書きました…」との記載が(^_^)v
そぅでしたネ、この方は書道を嗜んでおられまして、当時、チケットを貰いましたので、二度ばかり書道展で作品を鑑賞しました事が…ですが、どんな書でしたのか、もぅ記憶にありません(^-^;
GONsan好みの書体でありませんでしたから…
今でも書の道を究めておられますようですネ。
それにしましても、映画の題字を依頼されますとは、この道では結構、著名な書道家になっておられますのかも…
で、改めて、頂きました賀状の表(住所書き)と裏面をジックリと拝見です。GONsanは、この方を好きなのですけど、う〜ん、やっぱり書体はGONsan好みではありません(^-^;
暫く賀状を手に、「この文字は素晴らしいのだろうか…」とか「年賀ハガキには走り書きで、チャンと書かれたらもっと素晴らしい書体なのだろうか…」と、あぁでもない、こぅでもない…と、思案のGONsanなのであります(^-^)
映画の題名は『おはぎ』で、本年2月に上映開始との事であります。
早速、WEB上で「映画おはぎ」を検索してみましたら、予告編の掲載が…
◆最新作映画『おはぎ』の紹介!!
2019年度完成の新作映画『おはぎ』は、広島などで2020年2月に公開します。監督は山中富雄、脚本はタレントの菜々瀬まいです。主演もその菜々瀬まい。他に出演は、田中翔貴!そして、大國いづみ、星子リンダ、はまの省蔵、野中喜雄、広島で多くの舞台などに出演している俳優の井原武文ら豪華出演者。
『令和元年度スクリーンライブHiroshima』にて上映され、短編の「令和想い」や中編映画「蚊太郎と若葉」、招待作品「星のきれいな夜だから」などが同時上映され、イベントでは出演者らの音楽ライブなどの開催がされます♪♪
・映画「おはぎ」予告編
●https://youtu.be/8T7AdSYsaFs
詳しくは一般上映会のコーナーをご覧下さい!
映画『おはぎ』など2020年2月の上映会に、ご来場頂いた皆様には全員に、劇中に出てくる行森商店(https://yukimori-shouten.co.jp/) のおはぎ1人1つずつプレゼント。
…と、こんな記載がありました(^.-)☆
この映画を鑑賞します機会がGONsanに訪れますのか否か、分かりませんけど、機会がありましたら「題字」だけでも拝見してみたいものであります(^-^)//"
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