2018/04/22(日) 福山市史跡「阿部正方墓域」の散策 <1/2> |
■2018年04月27日23:17
4/22(日)は、福山市史跡「阿部正方墓域」の散策でした(^.-)☆
昨年の11/18でしたか…中国新聞紙上に、こんな記事の掲載がありました(^.-)☆
で、いつの日か機会がありましたら出掛けてみよう…と思いながら現在に至っておりました。
ら、やっと、先日・4/22(日)にその機会が訪れましたネ。
「阿部正方公墓所」をWEB上で検索してみましたら、こんな記載がありました。
◆阿部正方 公、小坂山墓所
--- 〒720-0074 広島県福山市北本庄2-16 ---
備後国福山藩9代藩主、阿部 正方(1848?1867年)公の墓所です。
福山藩、阿部家の各藩主は江戸で埋葬されている中、唯一、福山での埋葬となっております。
戊辰戦争の前哨戦として1868年(慶応4年)1月、長州軍が福山城の北側に侵攻してくる直前に若干20歳で死去され「先人の森(小丸山)」に一時、仮埋葬…それを秘して福山藩は長州軍の猛攻を死守…その後、福山藩は無血開城に向けて関藤 藤陰(1807?1876年)と三浦 義建が動き新政府軍に加わる事になりました。
1869年(明治2年)8月、改めて小坂山に埋葬された阿部 正方公ですが、大新涯造成や農民で組織された郷兵に領内の治安維持の為、警護させるなど多くの施策も実施しました。
近隣には案内板が有るのですが、アパートと民家の細い道を歩いていかないといけないので少し難しい場所に在ります。幕末から明治維新の狭間で生き抜いた若き藩主は静かに小坂山で眠っております。
★《珍しい形式の阿部正方墓》
墓の形式は非常に珍しく、写真から分かるように、下部は円筒形になっており、その周囲に六角形の亀甲形石材が埋め込まれています。上部は土饅頭形に盛りあがっていますが、突き固められており、しかも比較的大きな丸石が、あたかも古墳の葺石のように葺かれています。
おそらく儒教墓の一種かと思われますが、他ではほとんど見たことがありません。近世の儒教墓は一般に土饅頭が多いのですが、土盛なので崩れることがままあります。それを防ぐためにこのような形式にしたのではないでしょうか。
阿部氏は譜代の名門で、代々幕府の要職につき、ほとんど江戸常府でした。そのため歴代の墓所の多くは東京にありますが、正方の墓だけは福山にあります。正方は10代藩主正寧(まさやす)の第3子で、有名な正弘の甥にあたります。兄の12代藩主正教(まさのり)が23歳で逝去後、その跡を継ぎました。
…との事であります。
こんな予備知識を得て、いざ出発。車は「北本庄庭球場」の第一駐車場に駐車です。
庭球場駐車場に到着しますと、まずは周辺の景観をパチリです(^.-)☆
何となくのどかな景観であります。
駐車場への進入路入口方向に眼を向けますと、小山が眼に入ります。この小山が小坂山で、この山に阿部正方公の墓所が存在です。
それでは、いざ出発です(^-^)//"
「北本庄庭球場」の第一駐車場を出まして、駐車場入口方向に真っ直ぐ小坂山方向に歩いて行きますと、T字交差点にぶつかります。丁度その辺りに阿部正方公墓地への案内表示板が存在です。
その案内板には、分かり易く墓地への進入路が記してありますから、スンナリと迷わず向かう事が出来ます(^.-)☆
T字交差点を右折し、スグに「ジュネス北本庄」建物前を左折です。
少し歩きますと左方向に阿部正方公墓地への入口が…ですが、そこには門扉で遮断。
この門扉の両サイドは充分空いていますから、容易に難なく入れます(^_^)v
あとは山道をノンビリと登りましても、スグに墓地到着です。
視界が開けて来ますと真正面に阿部正方公のお墓が…
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