2018/05/05(土) 浅口市「鴨山城跡」散策(^.-)☆ <1/7> |
■2018年05月07日23:59
GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆
楽しみにしておりましたGWも、いよいよ残り2日間。GW後半の4連休も、慌ただしく過ごしておりますとアッと言う間に過ぎ去ってしまいます(^-^;
で、GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策となりました(^.-)☆
A.M.10:00頃に我が家を出まして、一路、浅口市へ(^-^)
鴨方に到着しますと、とりあえず車は「かもがた町家公園」に駐車です。そして、今回の散策のスタート地点・かもがた町家公園内を少し散策。
◆かもがた町家公園
・公園の概要
江戸時代の岡山藩と鴨方支藩を結ぶ官道「旧鴨方往来」沿いに、2棟の町家や土蔵、井戸などを修復し、伝統植物園や芝生広場などを あわせもつ歴史的景観を残す憩いの公園。(平成10年10月にオープン)
公園の中核となる町家「旧高戸家住宅」は、大和様式と備中様式を合わせた建築工法を取り入れており、1687年の修理棟札から築後300年以上を経た岡山県最古の貴重な町家として「岡山県重要文化財」に指定されています。ここは、油商等を営む傍ら、鴨方藩主の宿泊所や江戸時代の文人たちの 交流サロンとしても使われた由緒ある町家です。
この周辺は、鴨山城跡・磨崖仏、鴨方藩陣屋跡、儒学者西山拙斎の居宅や碑、宮の石橋等の史跡や文化財があり、周辺の寺社とともに歴史的景観を保っている町の文化ゾーンとなっています。
町家公園の特徴は、県下最古の町家の保存とともに、運営を住民の皆さんが行っていることです。約100人のスタッフが公園の清掃や案内、食堂でのもてなし、文化事業などを担い、来園者に喜んで過ごしてもらえる公園づくりに努めています。
また、子どもたちが、日本の伝統行事に触れることや昔の遊びなどを取り入れた異世代間行事など行い、青少年の教育施設として活用されている点も大切な公園の役割となっています。
尚、2006年10月には国土交通省により、「日本の歴史公園100選」に認定されました。
…と、WEB上で検索致しますと、こんな「かもがた町家公園」でありますようです。
ついでに「備中・鴨山城」を検索しますと、
◆備中・鴨山城 (別名--鴨方城、加茂山城、石井山城、清滝山城)
・形態 -- 山城(168m/140m)
・歴史 -- 応永14年(1407年)細川満国によって築かれたといわれる。鴨方細川氏は管領細川家の後裔で満国は備中浅口郡・矢田郷、伊予宇摩郡・温泉郡、摂津小林上下庄、丹波畑之庄などを領していたといわれる。
七代鴨山城主となった細川通董(通薫)は、はじめ伊予国川之江城にいたが、永禄2年に青佐山城に入り七年、続いて龍王山城に入り九年在城し、天正3年(1575年)に宇喜多氏によって奪われていた鴨山城を毛利氏の援助のもと奪還した。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐では、小早川隆景に従って出陣し、その帰路赤間関(現在の下関)にて没した。家督は細川元通が継ぎ、関ヶ原合戦後は毛利秀元の客将となった。
・説明
鴨山城は長川寺の北西に聳える標高168.2mの山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって北端に櫓台が付いている。そこから南へ向かって階段状に削平地が連なるが、多くは岩がゴツゴツした地形になり、先端部は岩だらけの地形になっている。石碑は主郭ではなく、途中に建っている。
主郭の北側は自然の鞍部で主郭側は巨石群になっており、堀切の役割をはたしていたようである。ここから東へ降りる遊歩道があり、これを降りると駐車場に至る。
この鞍部から北の部分は整備されていないが、城郭遺構と思われる削平地が段々と連なっている。基本的に広い削平地が連なるだけで堀切などは見あたらないが、主郭より南の削平地は岩がゴツゴツあるのに対してこちらはより開けた広い削平地となっている。地形図の標高150mより上の部分がほぼ城域となり、南北350m程の規模になる。
…と、こんな「鴨山城跡」であります。
それでは、散策開始です(^.-)☆
鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいますのを横目に町家公園内をノンビリと散策です。
このまま公園内を上の方に向かいますと鴨神社にと行けそうですので、とりあえず鴨神社へと(^.-)☆
町家公園の最上部に上がって来ますと、「田中索我の墓碑・西山拙斎の墓碑」の案内表示板が。
WEB上で検索してみますと、
・田中索我の墓碑
江戸時代中期の絵師。京都で鶴沢探索に仕え画法を学ぶ。仙洞御所の屏風や杉戸を描くのに関わり法橋上人位にも任ぜられた。帰郷してからも活動を続け、備中に多くの作品を残している。
・西山拙斎の墓碑
岡山を代表する江戸中期の儒学者。大坂・京都などで儒学や医学を学んだ後、39歳で帰郷。当時全国的に学風が乱れているのを嘆き、幕府儒官柴野栗山に朱子学を正学とする学制の統一を説き、翌年老中松平定信が行った教育改革の「寛政異学の禁」につながった。
…と、こんな記載がありました。西山拙斎の墓碑は後ほど拝見する事に致します。田中索我の墓碑は今回はパスとなりました。
この表示板前を左折しますと、正面に石橋が…これは「宮の石橋」と呼ばれていますようですネ。
・宮の石橋
鴨神社の随身門下にある石橋で、「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎・索我・宮の石橋」と謡われた鴨方三奇一つです。長い板状の石6枚を反らせて整えた太鼓橋で、鴨方の町筋からの参道を上ってくる参拝者のために造られたものとのことです。石橋が跨ぐ小道付近の小字名が「鴨之下通」であることから、この小道がかつての古道であり、本来の参拝口はこの石橋辺りにあったことを思わせます。かもがた町家公園の北西側にあります。
ついでに鴨神社も検索してみますと、
・鴨神社
「神社明細書(昭和2年)」には、836年の京都の加茂大明神を勧請した旨を記している。近世史料には「加茂大明神」「加茂宮」とあり、1887年、鴨神社と改号した。
…と、こんな記載がありました。
それでは、これから「宮の石橋」を渡り鴨神社に参拝です(^-^)//"
「宮の石橋」を渡り石段を上がって行きますと、鴨神社にと到着です(^.-)☆
◆鴨神社
浅口市鴨方町鴨方に鎮座
村社
祭神 --- 鴨別命、天津彦炎瓊々杵命、大己貴命、神日本磐余彦尊、加茂天健角身命、天鈿女命、下照姫命、媛踏?五十鈴姫命
創祀年代不詳 平安朝の頃、承和三年(836)京都より加茂大明神を勧請、奉斎。
明治二十年(1887)鴨神社と改称。
源頼政から五代目の孫で鴨山城主細川下野守道董の頃から、代々鴨山城主の祈願社となり、殊に旧鴨方藩主池田信濃守の崇敬が厚い。
社殿は荘厳華麗であったが数度の炎上に遭い、現在の幣殿・拝殿は明治四十五年(1912)の再建。本殿は昭和十八年十月に再建。
キレイに手入れしてあります、こんな由緒あります鴨神社のようであります(^.-)☆
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