2017年 某協会福山支部の皆様と「和歌山方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <3/14> |
外周の散策を終え、またボルトヨーロッパゾーン内に戻りますと、ワンchan連れのグループの皆様に遭遇です(^.-)☆
もぅ結構な老犬なのでしょうか…ベビーカーに乗せられましたワンchanも(^_^)v
こぅした光景を眼にしますと、やはり亡きゴンchanの面影が…
永年、犬と共に暮らしておりましたのが当たり前の生活から、突然、犬がいなくなりますと、この寂しさは仲々消えないもののようですねぇ(^-^)//"
約2時間ばかりの「和歌山マリーナシティ」内の散策となりましたけど、結構楽しいものでありました(^.-)☆
黒潮市場ではマグロの解体ショーが楽しめましたようですけど、そちらに足を向けましたのは、解体ショーも終わりました後(^-^;
これが少し悔やまれましたかも(^-^)//"
和歌山マリーナシティを後にしますと、次に向かいましたのが「紀三井寺」。
◆紀三井寺
紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさん こんごうほうじ ごこくいん)。西国三十三所第2番札所。救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)総本山。
・概要
寺号は詳しくは紀三井山金剛宝寺護国院と称し、宗教法人としての公称は「護国院」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる。宗派はもと真言宗山階派に属したが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6ヶ寺および末寺14ヶ寺を包括する。本尊は十一面観音で、西国三十三所観音霊場の第2番札所である。
寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、228.6メートル)の中腹にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める。山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は徳川頼宣の命により設けられたものである。また、三井水は1985年(昭和60年)3月に環境庁(現・環境省)が選定した「名水百選」に選ばれている。境内は関西一の早咲き桜として知られており、観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれている。
・歴史
-- 開創 --
伝承によれば、宝亀元年(770年)、唐僧の為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『紀伊続風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」が転じたものと伝える。
-- 中世から近世 --
紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。
(前略)合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。
-- 紀伊続風土記 --
このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、日前國懸社と深い関係にあると見られていたことが分かる。嘉禎4年(1238年)の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、応永年間(1394年〜1428年)には、日前國懸社の祭礼に警固を兵士を送ったという。その他、興国寺の開山たる法燈国師覚心が招かれて、紀三井寺の南に、紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある。
前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49町を算したが、紀州攻めの際に没収されて失われた。慶長6年(1601年)、浅野幸長は紀三井寺村内の13石を寄進した。次いで、紀州徳川家 初代の徳川頼宣は8石や燈明料を寄進したほか、境内の地子を免じ、正保4年(1647年)には境内における殺生を禁じた。
室町時代には西国三十三所ないし熊野参詣の隆盛により、多くの参詣者が訪れた。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある花山院の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない。穀屋は比丘尼寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた。
穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。文安6年(1449年)の勧進状は、嘉吉元年(1441年)に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、なおも未成であった多宝塔復興のための勧進であった。大永2年(1522年)の勧進状では、堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる。また、元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」は、穀屋比丘尼の春古は秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨んで山内安堵の証文を得たことにより焼討を回避した(天正13年(1585年))と伝えており、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めた。
秀吉の紀州攻めの翌年、天正14年に本願坊が創建され、のちに明暦年間(1655年〜1658年)に護国院と改称した。のちに本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ信長・秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな朱印領の賦与であったが、のちに寛文5年(1665年)の諸宗寺院法度において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられた。紀三井寺では、宝永2年(1705年)に穀屋が山麓の楼門外に移転させられ、宝暦3年(1735年)には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の子院であった穀屋はいち末寺に格下げされた。
…と、WEB上で検索しますと、こんな紀三井寺でありました。
← 戻る Contentsに戻る トップページに戻る 進む → |