2014/05/10-11 代理出席で鹿児島行きとなりました(^.-)☆ <2/12> |
薩摩庵七ツ島工場の工場見学を終えますと、次は隣接地の、さつま無双郭an「無双蔵」の工場見学となりました(^.-)☆◆さつま無双鰹レ細所在地 --- 〒891-0132 鹿児島県鹿児島市七ツ島1-1-17
お問い合わせ --- TEL 099-261-8586
焼酎造りの現場をガラス越しに間近に見学する事が出来ます。
スタッフが丁寧に説明致します。
また、売店では、県内メーカーの200種類余りの焼酎を販売しており、試飲もできます。
見学施設名:株式会社 無双蔵
営業時間:9:00〜17:00◆さつま無双のこだわり鹿児島県の特産品である「焼酎」を、日本の、更に世界の「焼酎」へと飛躍・発展させる為に、鹿児島県・市・各機関の要望により、鹿児島焼酎の代表銘柄として生まれた「さつま無双」。
鹿児島県酒造協同組合が全組合員に呼びかけ、酒質・風味とも真に鹿児島焼酎の王者といえるべき風格のある焼酎にする為、熊本国税局鑑定官室と鹿児島工業試験場の全面的指導を受け、最高品質の焼酎として生みだされました。「さつま無双」=「薩摩に双つと無い」という意味を持つこの名は、鹿児島県民に一般公募し、当時の県立図書館長「椋 鳩十先生」を選考委員長として多数の応募の中から名付けられました。◆蔵元史昭和41年鹿児島県酒造協同組合傘下の全業社の協力のもと、全国に鹿児島の焼酎を広めるためにさつま無双を造りはじめました。
その後昭和45年10月、株式会社に組織変更し、その代表銘柄名を冠して「さつま無双株式会社」として今日に至っております。◆想い全国に鹿児島県の本格焼酎として発表する「薩摩に双つと無い」と言う名前にふさわしい酒質風味ともに風格ある原酒をブレンドして「さつま無双」は生れました。
その名は県内に広く募集され、椋鳩十先生を始めとする選者の方々の選考によって名付けれました。…と、こんな「さつま無双」sanであります(^.-)☆
試飲が出来ますから、一杯…二杯…と少しずつ飲んでおりましたら、一つアルコール度の高いのがありましたネ。
いゃぁ、少々酔ってしまいましたGONsanです。バス車内に戻りましてから、暫く気分的には良くはありませんでしたねぇ(^-^;ゲボが出そうでありました(^-^)//"
挿入の画像の車窓からの画像は、「富屋食堂」を撮りましたものなんです。
鳥濱トメさんが営んでおられました食堂ですけど、こうして現在でも保存されていますのですねぇ〜◆鳥濱トメトメ(とりはま とめ、1902年(明治35年)6月20日 - 1992年(平成4年)4月22日)は、鹿児島県の食堂経営者。知覧町(現南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見て、「特攻の母」と呼ばれた。◆来歴・1902年(明治35年)、鹿児島県坊津(現・南さつま市)生まれ。18歳で旧家出身の鳥濱義勇と結婚。
・1929年(昭和4年)、トメ27歳の時に富屋食堂を開業。
・1942年(昭和17年)、富屋食堂が陸軍の指定食堂になったため、陸軍知覧飛行場の飛行隊員が訪れるようになった。
・1945年(昭和20年)、特攻作戦が始まると、知覧から出撃する特攻機の見送りを続け、隊員が憲兵の検閲を避けるためにトメに託した手紙を代理で投函したほか、個々の隊員の出撃の様子を自ら綴った手紙を全国の家族のもとへと送り続けた。
・1945年(昭和20年)、終戦後、警察署長から進駐軍の富屋食堂への出入りを懇願されるが、トメはそれを固辞する。しかし、町が主催する進駐軍の歓迎会が富屋で開かれたことをきっかけに米軍兵士が富屋に出入りするようになり、生来の面倒見の良さから米軍兵士からも「ママさん」と親しまれた。
・1952年(昭和27年)、「基地跡を訪れる遺族のために」、旅館として改装開業。
・1955年(昭和30年)、かつて自身の担任教師でもあった当時の知覧町長に再三働きかけたことにより、旧飛行場の一角に特攻平和観音堂の建立が実現し、その観音堂参りがその後のトメのライフワークとなる。後に隣接して知覧特攻平和会館などが観音堂の周辺に建設されることとなる。
・1992年(平成4年)死去。享年89。
・2001年(平成13年)、かつての食堂が「ホタル館」として復元され、特攻隊員の記念館となっている。現在の経営者はトメの孫である鳥濱明久。…と、こんな鳥濱トメさんのようです。が、この方の存在は今回初めて知りましたGONsanであります(^-^)//"
← 戻る Contentsに戻る トップページに戻る 進む → |