2012 講中の皆様と東京・日立方面のお寺巡り <10/13> |
■占部広方(うらべのひろかた)生没年未詳
常陸国の人。助丁(すけのよほろ)。天平勝宝七歳(755)二月、防人(さきもり)として筑紫に派遣される。
橘の下吹く風のかぐはしき筑波 つくはの山を恋ひずあらめかも(万20-4371)
【通釈】橘の木の下を吹く風ではないが、かぐわしく尊い筑波の山を恋しく思わずにおられようか。
【語釈】◇筑波の山 歌枕紀行参照。
■2012年07月01日
2012/05/25-27「中村講中お寺詣り」(10)
筑波山神社の散策を終えました後は周辺を散策してみましたけど、特に何にも存在しませんから、時間を持て余しまた筑波山神社に舞い戻りとなりました。
で、ノンビリと再度、神社内を廻っておりまして眼に入りましたのが「楠木正勝の墓」。神社の裏手にひっそりと存在ですから、最初は気付きませんでしたけど…■楠木正勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』楠木 正勝(くすのき まさかつ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。正能とも。官名は右馬頭か。楠木正成の子楠木正儀の子。正秀、正元、正則、津田正信らの兄。子に伊勢楠木氏の祖となる正顯(正盛)、また盛信などの名が伝わっている。正秀を弟ではなく子とする説もある。北朝、足利幕府(室町幕府)に徹底抗戦した。正確な資料に乏しく、兄弟・一族の事跡と混同されている場合があるが、一貫して南朝側の軍事行動を起こしている。 1382年に土丸城に篭城し山名義理と争うが大内義弘の援軍に敗れる。1385年山名氏清と河内国で争い奮戦するが、敗れて退却する。元中五年(1388年)8月、紀伊国の名勝和歌浦からの帰京中の足利幕府第3代将軍の足利義満を奇襲しようと企てるが、河内国平尾城付近で逆に山名氏清の攻撃を受けて敗走。1390年山名・細川の河内国平定軍に敗れ、楠木氏の根拠地千早城に逃亡した。1392年には畠山基国に千早城も落とされ、正勝ら兄弟は吉野十津川に逃亡。1399年応永の乱を起こした大内義弘に楠木某は二百余騎の軍を率いて組するが、これを率いていたのは正勝かあるいはその兄弟なのかは定かではない。堺に3か月余篭城の末に室町幕府軍に敗れ、これ以降の事跡は不明である。◆伝承奈良県の十津川村には正勝の墓所と伝承が残る。北朝軍に敗れた正勝と弟である正元が十津川村武蔵に10年ほど潜伏したが、再起を図るうちに病に倒れ、同地で病没したとされる。この伝承に従うならば没年日は応永11年(1404年)、または応永18年(1411年)1月15日とされる。 同地には明治期に綺麗に再整備された楠木正勝の墓とされるものがあり、現在も毎年4月3日に供養が行われている。別伝として、1379年には既に仏門に入っており、曹洞宗の著名な僧傑堂能勝は正勝である、とも伝わっている。同説に拠れば、生年は文和4年(正平10年/1355年)、没年は 応永34年(1427年)8月7日とされる。傑堂能勝が越後国に開基した耕雲寺の寺紋は「菊水」である。また、普化宗の門に入り、虚風居士の弟子となって「虚無」と名乗り、禅と尺八を持って全国各地を回ったとの伝承もある。同伝承に拠れば全国行脚の際、身なり卑しく異形の体であったため、人に「貴方は一体なんだ?」と問われたため、「虚無僧なり」と答え、これが虚無僧の祖になったとされる。ただし、一般に考えられている虚無僧の発生時期と年代が合わない。◆墓所墓とされるものは前述の奈良県十津川村武蔵のほか、正勝の孫が開祖と伝わる大阪市東淀川区豊里の定専坊、茨城県の筑波山神社(古通寺)など各地に存在する。 新潟県南魚沼市雲洞の名刹・雲洞庵には、寺の開基の師に当たる傑堂能勝大和の木像と位牌がある。…と、こんな楠木正勝sanでありますようです。そのほかにも、「特産新都之碑」と言うのもありました。WEB上で検索してみましたら、■西瓜新都之碑昭和29年に建てられた【西瓜新都之碑】。西瓜を特産品として、さらに発展にしようとの誓いの碑です。
人工物なんですが…「特産品新都之碑」ってあります。筑波山神社の中にあるもので、茨城県人はどうでもいい事にでも石碑を建てる傾向があり、また近年、とみに石碑も容易(たやす)く建てられる様になっているので、始末に悪い。
簡単に言えば、「スイカ新品種の碑」であります。表面の剥げた様に見えるところは、スイカの縞を摸したものでございました。…と、どなたかの記載が(^-^)
うん、うん、なるほど…よくよく見れば、これは確かにスイカですねぇ(^_^)vまぁとにかく、こんな感じの早朝散策でありました(^-^)//"
■2012年07月02日
2012/05/25-27「中村講中お寺詣り」(11)
「江戸屋」を後にしました2日目は「靖定山 久昌寺(きゅうしょうじ)」にと向かいます(^.-)☆■靖定山 久昌寺(きゅうしょうじ)【宗派名】日蓮宗 本山
【別名】山の御寺
【住所】茨城県常陸太田市新宿町239
【本尊】久遠実成本師釋迦牟陀仏
【開山】禪那院日忠上人
【開基】徳川光圀公【由緒】久昌寺は天下の副将軍、水戸黄門光圀公の創建によるものである。
寛文元年(1661)、母靖定夫人逝去されるや、光圀公は思親追慕の念止み難く、延宝元年(1673)十三回忌のみぎり、孝道為本の祖訓に則り、その追善のために一寺建立の悲願を立て、約5ヶ年の歳月をかけて、延宝5年(1677)、唐風七堂伽藍の大殿堂を建立し、亡き母君の法諡号に因んで、靖定山妙法華院久昌寺と称した。しかしこの大殿堂も時移り、やがて廃仏毀釈の煽りを受けて、明治3年(1870)、廃藩置県とともに水戸家の外護を離れ、末寺である蓮華寺と合併し、現在の地に移った。本堂は昭和6年(1931)、宗祖六百五十遠忌のみぎり、篤信者の梅津福次郎翁の一基寄進で、また客殿、書院、庫裡などは、去る宗祖七百遠忌のみぎり、その報恩事業として建立された。【寺宝】日蓮上人御真筆、上野御殿返事、法華題目抄/光圀公尊像/日乗上人日記/義公木彫面/獅子高座/その他多数◆久昌寺(きゅうしょうじ)深大山禅那院と号する久昌寺は、延宝5(1677)年に徳川光圀公が生母の谷久子を弔うために建立した寺院です。
久子の法号である「久昌院靖定大姉」からその名が付けられました。当初は現在の稲木町に建てられたものの、幕末の混乱期の影響を受けて荒廃。明治3(1870)年に現在の場所にあった久昌寺の末寺・蓮華寺と併合することで再建されました。堂宇は本堂、庫裏、聚石堂、三昧堂、大宝塔などを備えているほか、年代ごとの光圀公の顔を掘った「木彫義公面」や公の暮らしぶりが細かく記された「日乗上人日記」、文永元(1264)年に書かれた日蓮聖人の消息文などの多くの寺宝が残されています。また、寺のすぐ後ろには,光圀公の遺徳を偲んで建てられた「義公廟」があります。…と、こんな由緒あります久昌寺でありました(^.-)☆
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