2012 講中の皆様と東京・日立方面のお寺巡り <8/13> |
■2012年06月27日
2012/05/25-27「中村講中お寺詣り」(9)
翌朝は、A.M.5:00丁度に起床のGONsanです。
いつものように、旅に出ました時には早朝散歩は欠かせません。何処に出かけましても、あてもなく散策していますと結構見聞を広められますから(^.-)☆今回は宿泊場所の真ん前に「筑波山神社」が存在しましたから、出かけない訳にはいきません。
洗顔後、急いで江戸屋を出ますと、もぅこんな時間から山好きな老若男女の皆様が山登りでありました。
筑波山神社には「男体山」「女体山」が存在しますから、首都圏に暮らしておられます方々には格好の山登りの地なのかも分かりませんねぇ〜■筑波山神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』筑波山神社(つくばさんじんじゃ)は茨城県つくば市筑波にある神社。
古代より山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内とし、男体山頂に筑波男大神(伊弉諾尊)を、女体山頂に筑波女大神(伊弉冉尊)を祀る本殿が建てられており、拝殿は筑波山南面の中腹にある。社格は、式内社(筑波男大神は名神大社、筑波女大神は小社)、旧県社(現、神社本庁の別表神社)。◆由緒筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。
第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。
幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。…と、こんな筑波山神社でありますようです(^.-)☆
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