講中の皆様と京都・和歌山方面のお寺巡り <10/10> |
■2011年07月29日
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(12)
高野山奥の院への参詣を終えますと、昼食のため一路和歌山市内へと向かいます。
バスに乗り込みますと、そのままスグに熟睡状態のGONsanでした。
早朝の暗い内から散策をしておりましたので、さすがに眼が閉じてしまいましたのかも(^-^)ハッと気が付きますと既に和歌山市内の昼食場所にと到着です。
時間はと見ますと正午を少しばかり過ぎておりましたが、行程表通りにバスは走って来ましたようですネ(^.-)☆昼食を終え建物の外で一服しておりまして周辺を見廻しておりましたら、正面の松林超えにお城の天守らしき屋根が眼に入ってしまいました。
で、バスの乗務員sanに「あの建物はひょっとしたら和歌山城でしょうか?」と尋ねますと「えぇ、そうです」との返答でした。バス車内ではズッと眠っておりましたから、今現在、和歌山市内の何処にいますのかサッパリ理解しておりませんでしたが、眼の前が和歌山城なのですから和歌山市内の真ん中辺りにいましたようですネ。
最初からそうと分かっておりましたら、サッサと昼食を終え、小走りに和歌山城公園内を散策して来ましたのでしょうけど、時既に遅し。
今から和歌山城を見て来ますのには、あまりにも時間が足りません(^-^;
う〜ん、。で、仕方なく歩道橋の上に昇って数枚パチリ。
もっと早く昼食場所が和歌山城公園のスグ近くと言う事を知っていましたら、サッサと昼食を終え、急いで和歌山城公園にと出かけていましたのに…
いゃぁ実に残念(^-^;■和歌山城和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。現在は、本丸と二の丸が和歌山公園となっており、本丸南西部には和歌山縣護國神社があり、南の丸には和歌山公園動物園がある。主に三の丸跡等には県庁、和歌山市役所や和歌山市消防局、和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存し、岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は県指定特別天然記念物に指定されている。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。…と、こんな和歌山城。
今まで一度も和歌山城公園を訪れた事がありませんGONsanには、せっかくその機会でありましたのですけど、う〜ん、本当に残念でしたねぇ(^-^)//"
■2011年07月30日
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(13)
昼食を終えますと今度はスグ近くの和歌山市吹上にある日蓮宗の本山(由緒寺院)報恩寺にお参りです(^.-)☆■報恩寺・所在地 -- 和歌山県和歌山市吹上1-6-38
・位 置 -- 北緯34度13分17.55695秒 東経135度10分19.33745秒
・山 号 -- 白雲山
・宗 旨 -- 日蓮宗
・寺 格 -- 本山(由緒寺院)
・本 尊 -- 日蓮聖人像
・創建年 -- 寛文9年(1669年)
・開 基 -- 徳川光貞、日順(開山)
・文化財 -- 梵鐘、紀州徳川家霊廟、瑤林院墓(市指定文化財)、全山(市指定名所)◆沿革慶長14年(1609年) -- 日忠、要行寺を創立。
寛文6年1月24日 -- 紀伊徳川家祖徳川頼宣正室瑤林院が江戸で逝去、遺骸は池上本門寺で荼毘にふされ、頼宣が自ら瑤林院の霊柩を護って和歌山へ帰り要行寺に埋葬。
寛文9年(1669年) -- 紀州藩主徳川光貞が母瑤林院への報恩と追福のため要行寺を改め広大な白雲山報恩寺を造営して紀伊徳川家菩提寺とし篤くこれを祭祀した。以後歴代藩主正室の菩提寺となる。
明治維新の廃仏毀釈により全山廃却。
明治11年(1878年) -- 復興し本山に復帰。
昭和20年(1945年) -- 和歌山大空襲により本堂焼失。
現住は36世長瀬日優貫首(文京区興善寺より晋山)。小西法縁。◆縁起寛文6年(1666)に没した紀州藩祖徳川頼宣の夫人瑤林院の追福のために二代藩主徳川光貞が建立した寺で、開山は光貞の舎弟にあたる従二位大僧都日順である。
当山は慶長14年(1609)ころ、要行院日忠が一宇を建立し要行寺と称したのに始まる。
瑤林院が没したとき頼宣は夫人が愛好した城南吹上の地、要行寺に葬った。
のち、寛文9年(1669)二代光貞がその菩提所として新たに大石宝塔ならびに諸堂を建立し、小西檀林の能化であった日順を招いて開山とした。翌10年白雲山報恩寺と山寺号を改め、また一箇の本山と定められ、寺領250石が寄せられた。
これより、紀州家の菩提所となり、白霊山上に建立された廟所に、瑤林院をはじめ一族藩士の霊が祀られるようになった。このことから、当山は別に武士寺と称されてきた。明治のはじめ、廃仏毀釈によって諸堂が破壊される難にあい、明治5年(1872)太政官布達により身延久遠寺の所管となった。
11年には本山に列し、諸堂も再建され旧に復した。しかし、昭和20年(1945)7月、戦災によって堂宇を焼失した。
すぐさま仮本堂が再建されたが、放火によって全焼し、41年再々建されて旧観をとりもどした。◇寺宝全山が和歌山市名所指定。
梵鐘と徳川家霊廟が県の文化財に指定されている。…と、こんな由緒寺であります。この報恩寺には紀州家の奥方様が眠っておられます。
初代藩主頼宣公のご正室瑶林院様の菩提を弔うため、2代藩主光貞公が建立したものです。瑶林院様は肥後国熊本で、虎退治で有名な加藤清正公の娘(五女)で熱心な法華信者でありました瑶林院様のために建てられた日蓮宗の寺院です。せっかくの機会ですから、この方々の墓碑も是非お参りしたい気持ちでしたが、GONsanばかりが勝手な行動をとります訳にもいきませんで…
カメラ片手に走り廻って画像に納める事も出来ましたのですけど…う〜ん、チト残念でしたねぇ(^-^)//"
■2011年08月01日
中村講中の皆様と和歌山方面のお寺巡り(^.-)☆(14)
報恩寺での参詣を終えますと、また1時間ばかりバスで移動し、いよいよ今回のお寺参りの最後の訪問地「妙国寺」へと向かいます。■妙国寺妙国寺(みょうこくじ)は、大阪府堺市堺区にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広普山(こうふさん)。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。開基は三好之康(三好義賢・実休)。開山は日b。妙國寺とも書く。◆歴史正親天皇の永禄5年(1562年)に、当時四国の阿波、讃岐より兵を起こして、畿内を支配していた三好家四兄弟の一人である三好豊前守之康(義賢実休)公が、大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を、開山である日b上人に寄進され、日b上人の父である堺の豪商であった油屋伊達常言、兄の常祐が協力して此処に常塔伽藍を建立寄進して、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定められました。寺名は日祝の号である「妙國院」による。 元亀2年(1571年)に本堂竣工。天正11年(1583年)までに広大な寺地に14の坊、南北の学問所などを備えた伽藍が円成する。 元和元年(1615年)の大坂夏の陣、大阪落城に際し豊臣の将大野道犬は、徳川家康妙國寺にありと聞き、乱入諸堂に火を放ち全山灰陣燼と化す。その後、寛永5年(1628)本堂再建、続いて祖師堂、三重塔、客殿、方丈、勅使門、鐘楼、経蔵、書院、徳正殿、その他支院等旧観を再現した。しかし、第2次大戦の末、昭和20年7月、堺大空襲による戦火で再び大半を焼失した。昭和48年、本堂等再建し現在に至る。
現住職は51世岡部日聡貫首(大阪市海宝寺より晋山)。堺法縁縁頭寺。◆霊木・大蘇鉄境内の大蘇鉄(そてつ)は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1,100年余と云う。織田信長は、その権力を以って、天正7年、この蘇鉄を安土城に移植させた。しかし、毎夜「堺妙國寺に帰ろう」と怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄を切りつけたところ、鮮血切口より流れ悶絶の様は恰も大蛇の如く、さしもの信長も怖れ即座に妙國寺に返したと言う。枯れ死寸前の蘇鉄を、哀れにおもわれた日b上人は法華経一千部を誦したところ、夢枕に、人面蛇身神が現れ「報恩のため、女には産みの苦しみを和らげ、苦難には災厄を逃れ、乏しき者には福寿を授ける」と三つの誓願をした。御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀られています。◆出来事天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺を訪れていた徳川家康は妙國寺に宿泊していたが、変を聞き、妙國寺僧、油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝える。◇堺事件慶応4年2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵13名の死傷者を出すにいたり国際問題となり、本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等土佐藩士20名は切腹を命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前で堂々と割腹自刃しました。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見るに忍びがたく切腹は中止となり、9名は土佐へ流刑となったのです。…と、こんな歴史のあります妙国寺。何度も焼失の目に遭い昔の面影は薄れてしまっているのでしょうけど、色んな歴史的事件の舞台となりました妙国寺。
当時に想いを馳せますと何となく感慨深い気持ちになってしまいましたGONsan。
この妙国寺に、織田信長も徳川家康も宿泊しましたのですねぇ(^-^)//"
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