四国八十八箇所霊場の第61番札所「香園寺」 <1/2> |
■2011年11月13日
四国八十八箇所霊場の第61番札所「香園寺」へのお礼参り@
10/9(日)は、四国八十八箇所霊場の第61番札所「香園寺」へのお礼参りでありました(^.-)☆
香園寺(こうおんじ)は、愛媛県西条市(旧周桑郡小松町)にある真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。
山号は栴檀山(せんだんさん)。院号は教王院(きょうおういん)。本尊は大日如来。四国八十八箇所霊場の第六十一番札所であり、子安大師の寺として親しまれているようです。
今年の春でしたか…嫁さんの友人から「お願い事があるのでしたら、四国の香園寺にお参りすれば必ず叶いますよ…」と教えられ、嫁さんと一緒に出かけましたのが既に8ヶ月くらい前の事になりますでしょうか…
「必ず叶いますよ」のお言葉に半信半疑で出かけまして、とにかく苦しい時の神頼み並みに懸命に手を合わせましたGONsan夫婦でありました(^_^)
あれやこれやと祈願料もお供えし満足顔で戻って来ましたけど、それから1ヶ月も経ません内に念願成就ですから、実にビックリ\(^o^)/
この時のGONsanの喜びようと言いましたら、とても筆舌には尽くせないかも分かりませんねぇ〜
この時には即刻、嫁さんの友人に「願いが叶いました!!」とご報告(^.-)☆
「皆さんよく祈願に出かけられますけど、大概、皆さん願いが叶っていますようですよ…」とのお言葉に、何らの疑問もなくウン、ウンと頷くGONsanでありました(^_^)v
以降は、早くお礼参りに出かけなくては…と想いながらも延び延びとなっておりまして、ヤッと出かけられましたのが先月・10/9(日)となりました。
我が家をA.M.10:00過ぎ頃に出まして“しまなみ海道”経由での四国行き。
挿入の画像は、その際に撮りましたものなんです。
我が家を出まして間もなく赤坂バイパスに入りますと、信号待ちの際に後方から追突でもされましたのでしょうか…2台の車が分離帯付近で停車し警察官の取り調べの真っ最中(^-^;
天気も良くて絶好の行楽日和でありましたけど、誠にお気の毒な光景でありました。が、この光景を横目で眺めながらお構いなしにカメラを向けますGONsanなのでありました(^.-)☆
しまなみ海道を走り抜け四国にと入りますと、いつものように“来島海峡SA”で休憩です。
天気がイィだけに、このSAから来島海峡大橋方向を眺望されます方々は実に多かったですネ(^.-)☆
この眺望をGONsanも何枚か画像に納めましたけど、ノンビリとした一時でありました(^-^)//"
■2011年11月14日
四国八十八箇所霊場の第61番札所「香園寺」へのお礼参りA
香園寺へのお礼参りを終えましてからの帰路には、今治城に立ち寄りとなりました。
今まで機会があれば今治城の散策を…と思っておりまして、今回ヤッとそれが実現(^.-)☆こじんまりとした今治城ですけど、それなりに観光客もチラホラ(^-^)■今治城の歴史・沿革◆江戸時代慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。
今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令により建築物は破却された。◆現代現在は石垣と内堀が残る。
昭和55年(1980年)に5重6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。 天守最上階からは、しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内を眺望することができる。また、本丸に藤堂高虎の像がある。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(79番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
平成19年(2007年)9月、可能な限り江戸時代の史実に基づき、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに復元された。…と、こんな今治城でありますが、天守こそ決して大きくはありませんけど、当時は城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所との事ですから、さぞ広大な造りでしたのでしょうねぇ〜
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