GW前半は お見舞いと若狭路散策でありました(^.-)☆ <5/5>

   

 

↑↓ 常高寺境内の景観です(^.-)☆

  

 ■尾崎放哉の略歴

 放哉は、季語や形にとらわれない自由律の俳人、それも漂泊の俳人として知られ明治中期から大正にかけて活躍しました。

 本名は秀雄。明治18年(1885)現在の鳥取市吉方町に生まれました。
 立志尋常小学校(現在の市立修立小学校)を経て、県立第一中学校(現在の鳥取西高等学校)に入学。この頃から句作を始めています。

 明治38年(1905)東京帝国大学法学部に入学、従妹との結婚を望みますが周囲に反対されます。以後、酒に溺れることが多く、人間不信も強くなり、就職しても次々と辞めていきます。

 大正12年(1923)仕事も家族も捨て、京都、須磨などの寺を転々とし、孤独と貧困、放浪の生活の中で放哉の句は輝き始めました。
 大正14年(1925)師である荻原井泉水の尽力により、小豆島にある南郷庵に落ち着つきますが、極貧と病苦の生活が続き、大正15年(1926)41歳で亡くなりました。

 代表句として「咳をしても一人」「入れものがない両手で受ける」など。

 せっかくの常高寺訪問ですから、暫しその周辺を散策です。
 何の予備知識も持たずに散策ですから、何処に何が存在しますのかサッパリ(^-^; でも、とりあえずJR小浜線下方向に歩いておりましたら眼に入りましたのが「名水・瀧の水」でありました(^_^)v

 由来が綴られました表示板に眼を向けますと、いきなり「この瀧の水源は何処にあるのか誰も知らない…」で始まりますから、チョッと笑ってしまいましたよ(^-^)
 

 

   

 ■瀧の水

 名水の水音は何ともいえない風情で、昔は酒も造られました。京都天竜寺の僧が唐の国への土産にこの酒を持って行ったところ、何年たっても味が変わらず清いままだったといいます。

 水汲み場の上には3体のお地蔵さんが祀られています。

 

   

 

 

(左)当時は、これが正規の参道でしたのでしょうけど、今は鉄道線路・JR小浜線に遮断され線路下を迂回です(^.-)☆

 

 

 「常高院は寛永十年、江戸にて没し、その遺骸は後瀬山麓にある常高寺の境内地に葬られ、四メートルに及ぶ宝筐印塔が建てられ現存しております」との事。この案内板によりますと、この図の一番上の辺りに常高院の四メートルに及ぶ宝筐印塔が存在しますようです。

 次回、また訪れます機会がありましたら、その際にはそこまで散策してみたい気持ちですネ(^.-)☆

 

(左)(右)JR小浜線による遮断で、線路脇をこんな感じで常高寺へと向かいます(^.-)☆ 随分な廻り道でありました(^-^)

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