敦賀市 気比神宮・金ヶ崎緑地・柴田氏庭園 <6/6>

  

↑↓ 柴田氏庭園内の景観です(^.-)☆

  

  

↑↓ 柴田氏庭園内の景観です(^.-)☆

   

  

↑↓ 柴田氏庭園内の景観です(^.-)☆

  

(中)入園料が100円必要でした(^.-)☆ 勿論、100円投入致しまして入園させて頂きましたよ(^_^)v パンフレットも頂きました(^_^)v

  

  

(左)(中)JR敦賀駅構内で列車待ちです(^.-)☆ (右)新幹線・京都駅で待ち時間を利用しまして何気なく(^-^)

国指定名勝“柴田氏庭園”

◇柴田氏の歴史

 庭園を築庭した柴田氏は、野坂村柴田権右衛門(光有)よりはじまる。
 彼は、年貢の増徴策をとっていた小浜藩より櫛林村の逃散田の復旧を命じられ、田13石余を所持して櫛林村に移住分家し開発にあたった。さらに万治元年(1658)櫛林村の北東にあった旧黒河川河川敷を中心とする荒地の新田開発にも取り組んだ。

 寛文2年(1662)11月、彼は市野々の屋敷地を定め、翌年4月に櫛林村から転居した。寛文7年(1667)閏2月に彼が没すると、彼の遺言により、市野々の田畑屋敷は嫡子権七郎清信が相続した。これ以降、開発地の分地禁止は家法として連綿として続いた。

 市野々の新田開発は光有の意思を受け継いだ清信があたり、貞亨元年(1684)の検地では実高95石8升3合となった。この年、郡中第一の高持ちに成長した柴田権右衛門(清信)に対し、郡百姓惣代の家格が与えられた。

 柴田氏がこうした多大な費用と労働力を必要とする新田開発を遂行出来た要因には、藩権力と密接に結びつき、その支援を受ける事が出来た事があげられる。そしてこの事は、柴田氏が武家同様の濠を巡らせた書院建築の大邸宅を構えられた事にも伺う事が出来る。

 柴田氏庭園は狩野探幽に地割設計を依頼し、探幽死後14年目にあたる元禄元年(1688)小堀遠州により築庭されたという伝説はあるが、確証はなく疑問である。しかし、その様式から元禄初期の作庭と思われ、遠州流の手法がところどころ取り入れられている事から、その系統の者により築庭されたと推察出来る。また、柴田氏甘棠館の完成を祝って柴田村(市野々)の村人達が集い踊ったのが初めとされる“柴田音頭”が栗野地区の盆踊りの中に踊り継がれており、現在“すてな踊り”として敦賀市の無形民族文化財に指定されている。


◇様式と手法

 柴田氏庭園は、現在の屋敷地内(約8,000u)の西部に設けてある。
 柴田氏は庄屋を務めていた関係から常に村人への善政を心掛け、故事「甘棠の愛」にあやかって邸宅を「甘棠館」、庭園を「甘棠園」と名付けたと言われている。

 名勝の指定を受けているのは、現存している甘棠館の接客部と甘棠園の2,340.56uである。
 甘棠館の接客部は、外観が寄棟式千鳥破風となっており、一種の八棟造に近い景観である。屋根は桧皮葺であったが、昭和40年銅板葺に改修された。

 内部は、玄関から鶴の間と称している12畳半に二間床の代書院構、そして10畳の松の間、その奥に1間床と附書院がある8畳構の上段の間がある。この附書院の障子部分には花頭窓のかわりに黒漆塗りの鳥居形の窓が設けられた珍しい例である。また、上段の間と松の間との境の欄間には、小浜藩主酒井家の定紋と輪宝紋がすかされており、藩主の休み所になったと言われている。

 甘棠園は、甘棠館書院の前庭であり、廻遊式借景庭園である。
 本庭は書院の南面から西面にかけて矩形に池泉を設け、池中に中島一島を作っている。これに南北の二橋を架け、向かって左手背後に築山を設け全体的に廻遊出来るようになっている。

 池泉は細長い様式となっているが、これは屋敷地に巡らせてあった周濠を利用して作ったためと思われる。北岸は栗石敷の浜となっており、書院の上下二間から飛石をつたって渡る事が出来、この栗石浜は比較的狭く、しかも急勾配である事から実用性を失っているが、狭い庭に遠近感を持たせるための手法と思われ、鑑賞本位に構成されたものであろう。南岸には、滝石組が設けられており、昭和40年頃までは水が落ち込んでいたが、周辺の環境の変化により水源を失い枯滝となっている。
 現在ではこれにかわり、池泉の東部に堀ぬき井戸を掘り電器モーターで揚水して池を満たしている。

 中島は、高さ約1bの巨石を建てて鶴石とし、島全体を亀の形に造り蓬莱島としている。
 築山は上部から下部池泉まで一種の大刈込の手法が用いられている。築山の背後には敦賀冨士と呼ばれる野坂山を遠望する典型的な借景庭園である。
--- 福井県敦賀市教育委員会パンフレットより ---
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