“白滝山荘”をご案内致します 

 
 

 

 
【白滝山荘 概要】

---宣教師の家 伝導の思い共有し建築 ---荒れ放題から再生

 米国の著名な建築家、ウィリアム・メリル・ヴォーリスが設計した住宅が因島に現存している。近代化遺産調査を通じて知った広島県教委文化課の富永六郎主事は、まさかと驚いたという。「関西の大建築を設計した人のイメージがあったから」

派手さより温かみ

 ヴォーリスは1905(明治38)年に来日後、64(昭和39)年に日本で亡くなるまで千件を越える設計を手掛け、大正から昭和初期の洋風建築ブームを作った一人である。
 関西学院大や神戸女学院大、大阪大丸百貨店、主婦の友社、山の上ホテル(東京都)などが代表作で、広島女学院大にも寄宿舎などの遺作が建つ。確かに、瀬戸内の島の建物は彼の生涯では異色である。
 因島の北部、重井港から見える白滝山(227m)の斜面に、県立因島フラワーセンターがある。その白く輝く巨大温室のかなたに、洋風建築が頭だけをちょこんとのぞかせている。
 ヴォーリスが31年に設計した米国人宣教師ファーナムの住宅である。木造三階建て。どきっとするほど太くて赤いラインで窓枠などを縁取る独特のデザインには、派手さよりも温かみを感じる。
 ファーナムは瀬戸内海を幅員船で伝導中、ある日、雷に打たれたように白滝山に終(つい)のすみかの建設を思い立った、と地元では伝わる。「行けばお菓子がもらえる」と子供にも人気があったという。
 だが彼は、キリスト教への圧迫が強まる中で41年、離日を強いられる。心底気に入っていた住宅と、泣く泣く別れる羽目に。家に全財産を投じていたため、帰国後は経済的に苦労したという。

出会いの経緯不明

 「ヴォーリスを建築家とだけ思っていては、なぜ、因島に家を建てたか分からない。二人の接点は伝導にあった」と、この家をペンションに再生した矢田部健二さん(41)は推測する。
 ヴォーリスはもともと、伝導のために日本行きを志願したほどの熱心なキリスト教徒。滋賀県に英語教師として赴任したが、「異教」を広めたとして解雇される。仕方なく始めたのが、もぅ一つの夢だった建築の仕事だった。
 だから、ミッション系の学校や宣教師の家の建築が多い。「建築物には宗教的感化がある」しも主張した。「日本に骨を埋める覚悟で伝導を目指した二人は、思いはよく通じたはず」と矢田部さん。だが、二人の出会いの経緯は分からずじまいだ。
 戦後、ファーナム住宅は日立造船所の所有になり、一時、洋館のたたずまいを生かして迎賓館的に使われたが、やがてカーテンがぶら下がるなど荒れ放題になった。

笑顔の優しい紳士

 大阪で板前をしていた次男の矢田部さんが13年前、「因島に帰る」と言った時、「あの宣教師の住宅はどぅなったろぅか」とファーナムに導かれるように思い出し、買い取りを勧めたのはクリスチャンでもある母マツ子さん(66)である。
 マツ子さんは女学生だった戦後の47年頃、ファーナムが一度だけこの住宅を再訪した時に会った。「笑顔の優しい紳士という記憶しかないけど」。洗礼を受けて間もなくの頃だった。
 戦後の一時期、因島にキリスト教ブームがあった。「『人間は生まれながらに罪人である』という教えが、信じられるものを失った心の中に自然に染み込んでね」とマツ子さん。その後は熱気がさめ、信仰の島とまではならなかった。
 しかし、三年遅ければ廃屋になっていた住宅は、矢田部さん一家の手でよみがえった。「家は見掛けより中身が大事」と、気取らない設計を心掛けたヴォーリス。落ち着いた雰囲気のリビングが、旅人をいやす。「日本が好きだった二人の心が生きているようむ。マツ子さんは時折、「宣教師の家」物語を泊まり客に語る。

右端の画像は、“因島フラワーセンター”です


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