佐賀県佐賀市 佐賀城跡・ 福岡県福岡市 大濠公園 <1/8>

 佐 賀城

 佐賀城は、鍋島直茂が戦国大名竜造寺隆信の居城であった村中城を改修した ものである。
 鍋島直茂は隆信の家臣であったが、隆信の戦死により当主となった政家が天正18年(1590)に隠退したとき、豊臣秀吉の信を得て事実上の佐賀藩の藩主 となった。

 直茂が縄張りし、子勝茂が築城にあたった城は、佐賀平野の平坦低地の 溝渠に囲まれており、城は全体の南東隅に位置する本丸や二ノ丸と北西に広がる三ノ丸、西ノ丸、武家屋敷郡によって構成され、それらの周囲を方形に近い大き な外堀をめぐらした典型的な平城である。
 緊急時には多布施川の水を取り入れ八田江・佐賀江の排水を止めることにより、天守・本丸の一部を除き、城下町ごと水没させる仕組みで、別称を沈み城とも いう。

 本丸の北縁に唯一の石垣がめぐり、この部分に高さは5bほどもある天 守台と鯱の門のある食い違い虎口あが築かれた。天守台には南蛮風の五層の天守と、すぐ西側にはその渡櫓が設けられた。
 注目すべきは、本丸から天守台には上がれず、二ノ丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。佐賀城築城寺、鍋島勝茂は二ノ丸に住み、 本丸を名目上の当主竜造寺氏に渡す予定であったという。

 その後、享保11年(1726)や天保6年(1835)の二度の大火 で本丸や天守、二ノ丸まで焼かれ、天守や櫓はほったらかし、政庁や御殿の修築ぐらいであった。

 その後、幕末まで佐賀城は鍋島氏と共に存続したが、明治7年 (1874)に征韓論に拘泥して下野した江藤新平が佐賀の乱を起こし、政府軍に鎮撫されたが、その時雨のようにに降り注ぐ砲弾のため、佐賀城は無残に破壊 され、今では僅かに鯱の門とと書院、石垣、堀が残るにすぎない。鯱の門にも当時の凄惨な状況を物語る弾痕が無残に刻まれている。
--- 観光パンフレットより ---

 佐賀市の中央部に位置し三方を濠に囲まれた佐賀城公園は、水と緑に囲まれた市民の憩いの場だ。園内には佐賀城趾の鯱の門、県立博物館・美術館、県立図書 館、児童遊園地、茶室などの多彩な施設がゆったりと配置されている。目下、歴史的な特徴をさらに充実させるために、佐賀城本丸跡の整備事業が進行中です。
  

(左) (中)JR長崎本線“佐賀駅”前の光景です(^.-)☆

  

(左) JR長崎本線“佐賀駅”です (中)(右)国道264号線と東武バイパスが交錯します付近の景観です(^.-)☆

  

(左) 正面が宿泊しましたホテルで右が夜の佐賀駅です(^.-)☆ (中)(右)早朝散策は佐賀城跡・佐賀城公園でした

  

(左) 佐賀城の周囲を回る幅の広い水堀 (中)(右)佐賀城本丸跡一体は、ご覧の通り整備事業が進行中でありました(^.-)☆

  

(左)鯱 の門も改修中で、中には入れませんで残念(^-^)

  

(中) 改修中の鯱の門 (右)ここが天守なのでしょうネ…

  

(左) 裏側から見ました鯱の門です

  

(中) (右)天守代への入口です(^.-)☆

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