福山市鞆町 沼名前神社「お手火祭り」 <1/8>
 2005/07/09(土)

 今夜は、福山市鞆町・沼名前神社で「お手火まつり」の開催日ですけど、あいにくの天候(^-^;

 午前中から小雨が降ったり止んだりの福山市内。はてさて、どぅしたものだろぅか…と思案していたのですけど、どぅにか夕方以降は激しい降雨とはならない様子。で、出かけて来ましたので、沼名前神社での“お手火まつり”の様子を画像でご案内致します(^-^)/

 この様子は、中国新聞sanも下記記事で伝えておりました。

 梅雨空焦がし、お手火祭り 福山

 --- 2005/07/10 中国新聞 ---

 無病息災を願う勇壮な火の祭典「お手火祭り」(福山市無形民俗文化財)が九日夜、福山市鞆町の沼(ぬ)名前(なくま)神社であった。燃え盛るたいまつの炎が梅雨の夜空を焦がした。

 午後八時、太鼓の音を合図に祭りは始まった。奥茂樹宮司が神火を白装束姿の地元七地区の世話人十四人に渡し、「大手火」と呼ばれる大たいまつ三本に点火された。

 たいまつは一本が長さ約四メートル、重さ約二百キロ。当番町の若者ら約六十人が交代で火の粉を散らしながら境内を練り歩いた。境内は参拝客ら約五千人で埋め尽くされ、厄払いにと神火を小さなたいまつに採火して持ち帰る人もいた。


 …と、こんな記事で。

 沼名前神社

 沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され、大綿津見命(おおわたつみのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)をお祀りしています。

 今から千八百数十年前、第十四代仲哀天皇の二年、神功皇后が西国へ御下向の際、この浦に御寄泊になり、この地に社の無きことを知り、斎場を設け、この浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全をお祈りになられたのが、当社の始まりです。

 さらに、神功皇后御還幸の折、再びこの浦にお寄りになり、綿津見神の大前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納め、お礼をされたところから、この地が鞆と呼ばれるようになりました。

 須佐之男命は、鞆祇園宮と称され、元は鞆町内の関町に鎮座していたが、慶長四年の火災で焼失し、草谷(現在地)に遷座の後、明治九年綿津見神を合祀し、相殿として奉斎されています。残念ながら、この祇園宮の創建については不詳です。

 旧社格は国幣小社。また延喜式内社です。現在は神社本庁所属の別表神社です。海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等のご神徳があります。

 お手火まつり

 旧暦6月7日に近い土曜日に毎年,沼名前神社で開催される神事。
 静寂を破って力強い太鼓の音が響きます。これを合図に、長さ4m、重さ200kg の大たいまつ3本に火がつけられ、それを裸の若者がかついで神社の長い石段を勇ましく上り下りしながら、人々のもつ小さなたいまつに次々と点火していきます。市無形文化財です。

  

   

  

(左)(右)伏見城から移築されました“能舞台”です (中)随神門:随身門とも言います

 能舞台

 重要文化財指定(国)

 この能舞台は、豊臣秀吉が配下の将兵の長期の戦場での慰安用に造られたもので、簡単に分解して移動できました。
 伏見城に置かれてましたが、二代将軍徳川秀忠が伏見城取り壊しの時、現在福山城にある伏見櫓とともに水野勝成に譲り渡しました。その後万治年間(1650年代)に三代水野勝貞は、鞆の津祇園社(現沼名前神社)に寄進しました。そして、こけら板で葺き、楽屋、鏡の間、橋掛りを常設し、固定舞台となってます。

  

  

(左)(右)拝殿本殿側面 (中)拝殿の右に祀られている神社

  

(左)(中)拝殿正面です

   

   

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →