講中の皆様と西九州のお寺巡り <2/16>

 

  

  

  

  

  

  

 

 ■「六喜廟碑」の由来について(日蓮宗新聞から)

 「純忠・至誠の清正公の実力と仁望をおそれた徳川幕府が、嗣子・忠廣公一族を追放した暴逆に、遺臣らが討幕を進言するのを忠廣公は退け、ひたすら父の遺訓の真意を体し、一家の利よりも国家の安泰を願って、天命にしたがい、隠忍の生涯を送った。

 三百年の後、正義あきらけき御代をむかえ、義人の熱烈な志に、県民こぞって力を合わせ、忠廣公顕彰の大義が実現。その霊は、永久に父君の本廟に侍して自受法楽されることとなった。

 第一の喜びは、忠廣公ら五霊位が晴れて故郷に還った事。第二の喜びはこれより本妙寺が代々よくお祀りできること。第三は忠廣公の顕彰ができること。第四は、加藤家の遺臣と旧領地の県民が、加藤家全霊をまつれること。第五は清正公の遺徳がより輝きわたる事。第六の喜びは、日本歴史のけがれが除かれ、正義輝く国となった事である。

 法華経の信者、清正公の余光により、この六つの喜びを一本の妙に開会された。法は妙なるがゆえに人貴く、人貴きがゆえに処も貴い。天下こぞっての喜びである」。


 ■田中智学(たなかちがく)

 1861〜1939。日本橋本石町うまれ。幼くして両親をなくし、10歳で出家得度するも、18歳には無難なアカデミズムに過ぎない仏門を否定し、僧籍返上。1884年に「立正安国会」を設立。

 これが後に「国柱会」となり、石原莞爾、高山樗牛、姉崎正治、宮沢賢治、中里介山といった、錚々たるメンバーに影響を果たし、1941年の大東亜戦争(=太平洋戦争)当時、右翼運動家たちを中心に広まった「八紘一宇」も、智学独特の日蓮宗発想である。

 (勿論、元々「日蓮宗」は強く他宗を批難・排斥し、トラブル多き狂信的側面が強いが。)新生児への頂経とか、仏式結婚式とか、一塔合安の妙宗大霊廟といった、アイテム数を他宗教に合わせ、開国以来の仏教の近代化に大きく寄与した。

  

  

 ■2007年05月23日
 町内の“講中”の皆様と一緒の九州お寺巡り -- A --

 加藤清正公の御廟所「本妙寺」を後にしましてからは、次は勿論「熊本城」を散策です。
 熊本城は、講中の皆様も既に何度か出かけておられまして決して珍しい場所でもありませんけど、なんせ加藤清正公のお城ですから、お寺同様に参拝しませんと(^.-)☆
 私も今回で4度目の熊本城散策となりますけど、今年は熊本城“築城400年”の節目に当たりますのですねぇ〜


 ■加藤家改易 --- 清正の死後、豊臣譜代の名門大名加藤家の結末 ---

 慶長16年(1611年)清正が亡くなると、肥後藩は清正の次男忠広(ただひろ)に受け継がれます。忠広は当時10歳と幼く、統治能力などまだあろう筈がなく、加藤家は改易かと思われましたが、家老5人での合議制にせよとの条件付きでどうにか存続が認められたのです。

 合議制をとった肥後藩では早速派閥争いが起こり、家老の加藤美作守(かとうみまさかのかみ)と加藤右馬允(かとううまのじょう)が互いに勢力を競い、元和4年(1618年)には江戸城の将軍秀忠(ひでただ)の面前で評定が行なわれる騒ぎとなりました。結局美作守派の失脚で幕を閉じましたが、以後右馬允や加藤平左衛門(かとうへいざえもん)らが藩政の実権を握ることとなりました。

 寛永9年(1632年)5月、加藤家は突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無作法」であるとして、出羽庄内に1万石だけを与えられて配流となります。豊臣譜代の名門大名加藤家です。徳川将軍家の深謀遠慮があってのことでしょう。
 出羽庄内では藩主酒井家の世話になり、酒井家は何かにつけ好意的で、幕府からの堪忍分1万石以外に、忠広に毎年720俵の米を贈っていたといいます。

 承応3年(1654年)忠広が病没し、その1月後に唯一人残った男系子孫である正良(まさよし)が配流先の沼田で自刃したのを確認して、幕府は「加藤家終末」と覚書に記したと言われています。しかし、忠広は庄内で側室との間に密かに1男1女をもうけており、その子孫が山形県に住まわれているそうです。

 余談ですが、忠広の妹あま姫は紀州徳川家の徳川頼宣の正室で、その孫が8代将軍吉宗です。なんと皮肉なめぐりあわせでしょうか。
--- 熊本城公式ホームページより ---
 …と、こんな運命を辿りました加藤家。

 熊本城内を散策しておりますと、遠い昔に想いを馳せまして感慨深い気持ちを抱いてしまいますよ。
 一口に「400年」とは言いましても、実に長い長い歴史ではありますネ(^-^)//"

  

  

 

 

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