岡山県矢掛町 葛城山 妙泉寺
 2008/05/03(土)

 GW後半の4連休初日の5/3(土)には、町内の皆様に誘われて岡山県矢掛町「葛城山 妙泉寺」で行われます『守護神 葛城大尊天 春季大祭』への参詣となりました(^.-)☆
 『葛城大尊天』と言いますと水呑葛城神社の守護神でありますけど、“えっ、何で矢掛町に…”と少々不思議なGONsan。

 こんなGONsanの疑問に、さすが人生の先輩の皆様、水呑葛城神社と“葛城山・妙泉寺”との関わりについて、このような説明をして下さいました(^.-)☆

 水呑町の葛城神社は、昭和30年頃現在地(八幡神社と六方学園の間)にと移転されましたが、昔は水呑町を眺望します熊ヶ峰の九合目付近にありました。

 安元元年(1175年)ですから今から830余年ばかりも昔、小松内大臣・平重盛公が宮島の厳島神社に参詣の途中、鞆の浦に上陸。
 その際に、水呑上空に閃光が出現し熊ヶ峰山頂付近に消えましたとか…
 それで、平重盛公はこの閃光を追って水呑から熊ヶ峰に登られましたようです。

 重盛公は熊ヶ峰山頂にと向かわれる途中、6・7合目の所で主従共に息も絶えるかと思われるほど疲労のところに白髪の翁が現れて、傍らにあった岩を取り除いたら、たちまち冷泉が湧き出したとの事。

 重盛公はこれを飲みましたところ間もなく元気を回復しましたので、重盛公はこの泉を“蘇命水”と名付けたと伝えられています。
 そして、時に翁は何者であるかと公が尋ねたところ、「吾れはこの峰の頂上に祀られる“かつらぎ大権現”の待者である」と応えたそうです。

 こんな経緯もありまして、重盛公は熊ヶ峰に登り葛城神社と熊野神社を祀ったと伝えられています。
 重盛公が冷泉を呑まれた事から『水呑』の地名が生まれたと言われています。

 この葛城神社の祭祀を司っておられましたのが妙泉寺の先代のご住職。
 この方が歳も重ねられ郷里の矢掛町にお帰りになられます際に、水呑葛城神社の分院の形で現在の妙泉寺の地に葛城大尊天を祀られ現在に至っていますようです。

 こんな関係で、現在も『守護神 葛城大尊天 春季大祭』には水呑から出かけまして参詣が続いていますようですネ(^.-)☆

 こんな先輩のご説明で納得のGONsan。仲々勉強になりましたねぇ〜
 そして我が家に帰ってきまして、水呑歴史民俗資料保存会の資料に眼を通してみますと、うん、うん、先輩の皆様からお聞きしました内容が記されておりましたネ(^.-)☆

 GONsanにレクチャーして下さった先輩の皆様のテキストは、“水呑歴史民俗資料保存会の資料”であったのかも分かりませんネ(^-^)

 …と言う訳で、GONsanの4連休の初日は「葛城山 妙泉寺」参詣でスタートしましたネ(^.-)☆

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 ■平重盛
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将、公卿。平清盛の嫡男。

 保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。

 嫡男ではあったが正妻の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。

 鹿ケ谷事件の際には清盛の後白河法皇幽閉を身をもって制止するなど、政治的には後白河に近い立場だった。
 清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河の対立では有効な対策をとることができないまま、父に先立ち病没した。

 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯篭を建てていたことから灯篭大臣とも称された。

↑ 水呑歴史民俗資料保存会の「葛城神社の由来」掲載のページです(^_^)v

   

(左)(右)花房家陣屋跡です(^.-)☆

 妙泉寺参詣時に何かの資料を眼にしておりましたら、寄進者のお名前の中に『花房正幸』のお名前が…
 このお名前は、何処かで眼にしました事があるのですけど、どんな方でしたか覚えてはおりませんGONsan。で、早速、WEB上で検索してみましたらこんな記載のありますページが…


 ■花房家菩提寺法悟山・妙泉寺略縁起

 抑々当山の開基花房公は清和源氏足利氏の支流で花房因幡守職忠の三男正定を祖とす。
 其の子正幸、天文中播磨より備前に移り、字喜多直家に仕え一万八千石を領知し、越後守に任じ虫明城に居る。
 老後家督を正成に譲り備中高松城に居り、慶長十年六月二十二日逝去す。

 正成は宇喜多直家・秀家の二代に仕え、天正十年高松城水攻献策の戦功に依り、太閤より則高松城を与えられ六千石の加増ありて舊領を合せ八千石を知行す。その後備前国にをいて一万石を賜ひ、また輿力の采地一万三千石を宛行はれ、すべて三万千石を領す。

 関ヶ原後、家康の幕下となり、備中小田・後月の二郡五千石を賜り猿掛城下横谷に居す。父正幸の逝去に依り、当地に菩提所を建立し、法悟山妙泉寺と号す。
 帰依僧日題上人を招じ、慶長十年十月十二日落慶法会を挙ぐ。門地山林の外年々寺領十二石八斗の御寄進ありて、追善回向寺門興隆の維持に資す。昭和四十七年四月十八日、花房家第十三代正幸の発願に依り池上本門寺の花房家墓地に在つた正成公墓碑外花房家墓石を当山墓地に遷墓完了し、現在に至る。

 〒714−1212 岡山県小田郡矢掛町横谷1263番地 法悟山妙泉寺 住職 谷口玄厚


 …と、こんな記載が。

 ふ〜ん、こんな経緯があります妙泉寺でありましたか…
 でも、「法悟山・妙泉寺」の記載でしたけど、現在は「葛城山・妙泉寺」となっていますけど…

 “法悟山”から“葛城山”と変わりました経緯の記載がありませんから詳細は分かりませんけど、“葛城神社”のお加護を求められまして「葛城山」と変更されましたのかも…GONsanの勝手な想像ですけどネ(^.-)☆
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