2022/04/02(土) 備陽史探訪の会「ぶら探訪足利義昭と津郷公儀御座所=vに参加 <5/5>

 

 線路下を抜け南側に出て来ますと、スグに踏切で、この脇から「小森館跡」の説明です。
 ここには、こんな説明板が設置されておりました。

 ◆小森館跡

 津之郷町小森にあり、この館跡を含めた一帯が山陽新幹線の車輌基地として使用されることとなり、昭和45年(1970年)発掘調査が行われた。小森館は幅9mの壕を周囲に持つ東西約80m、南北約82mの方形館であることが分かった。
 館内の高さは周囲の水田から高さ約1.5mぬきん出ていて、侵略者を寄せ付けない沼田に取り囲まれた沼田城形式の城郭である。
 館主の横山氏が津之郷に移った経緯については、『西備名区』や当家の由緒書きにも記述があるものの、古文書によって立証されるのは、天文17年(1548年)からである。

 --- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 ◆横山家文書(福山市指定重要文化財)

 中世末期、津之郷町小森にあって当地方の有力武士の一人であった横山備中守関係の書状で17通を一巻に仕立てている。
 戦国末期から桃山時代にかけて、神辺城主杉原氏や毛利家との関係を示すもので、当時の備南地方の形勢を推測するうえできわめて貴重な資料である。

 --- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 ◆小森館跡

 津之郷町大字津之郷小森にあった横山氏の居館。沼地の中の館であったようで、水田からはわずかに高い地形だったようです。
 昭和45年(1970)、山陽新幹線車輌基地建設のため発掘調査後消滅。発掘調査では、幅7mから9mの堀が確認され、石垣、遺物も相当量でたようですが、多くは近世の物であったようです。
 横山氏は、神石郡の楢原山城から津之郷に移ったと伝えられています。戦国時代、毛利氏配下で「伯洲の神辺殿」と称された杉原盛重の重臣として、横山備中守などが史料で確認できます。
 杉原氏の神辺退去後も毛利氏に従い、関ヶ原合戦の後は小森にとどまり帰農しました。

 --- 当日、備陽史探訪の会より貰った資料より ---


 小森館跡の説明が終わりますと「ぶら探訪足利義昭と津郷公儀御座所=vは、オシマイです。後は、スタート地点の「津之郷公民館」へと戻ります。
 途中、住居と住居の間に狭い路地がありまして、この路地を進めば「神社」があるとの事でした。今回は、狭い場所だから訪問しないとの事であります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 津之郷公民館に戻って来まして時間を見ますと、A.M.11:27でありました。と、言う事は、約2時間半のぶら探訪となりましたようです。
 備陽史探訪の会から閉会のご挨拶がありまして、解散です。
 丁度、帰り道でもありますから、先ほど立ち寄りませんでした神社(貴船神社)を訪れてみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 国道2号線の下にチョッとした駐車可能スペースがありますので、とりあえずここに車を駐め、先ほど進入しませんでした路地へ。
 路地を線路方向に進みますと、スグに神社へと到着ですけど、うん、うん、さほど広くありませんからスルーされたようですねぇ〜
 記念碑に神社の由来が刻まれていますので、眼を通してみますと、

 ◆貴船神社移転記念碑

 -- 由来 --

 この神社は京都市左京区鞍馬貴船町、旧官弊中社貴船神社の分祀で水を司る神として広く崇拝されてきた。
 昭和47年(西暦972年)七月新幹線保守基地の建設にともない北西五十五米の場所よりこの地に移転した。

 --- 平成6年10月吉日 小森氏子 ---


 …と、こんな記載が。
 境内を見廻しておりますと、雑草に紛れてツクシが(^-^)
 「小森館跡」の説明をされました際に、この「貴船神社」の説明もありましたのでしょうけど、う〜ん、GONsanは聞き漏らしましたようであります(^-^;
 現在地から北西55mの場所に移転前は存在したと言う事は、きっと、「小森館跡」にありましたのかも…
 WEB上で「旧官弊中社貴船神社」を検索してみますと、こんな記載が…

 ◆貴船神社

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都府京都市左京区にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
 全国に約450社ある貴船神社の総本社である。地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。

 ・概要

 貴船山と鞍馬山に挟まれた、森林鬱蒼とする山峡に鎮座する。社前には賀茂川の上流に位置する貴船川が流れており、京の市中を潤す鴨川の源流とも考えられた。水神である高?神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
 古来より歴代天皇は干ばつの時には黒馬を、長雨には白馬を奉納して祈願をしていたといい、後に生きた馬に替えて、馬形の板に着色した「板立馬」を奉納したと伝えられる。これが現在の絵馬の原形となったため、貴船神社が「絵馬発祥の社」といわれる。さらに木または紙に描かれた馬の絵によって代用されるようになり、江戸時代に入って個人が小型の絵馬を神社に奉納する習慣が広くする流行するにいたった。
 また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルで賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には、丑の刻であるかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に、本来の意味が変質したものと思われる。
 付近は京都でも有名な紅葉の名所のひとつである。
 神水は京都の水脈の源流である貴船から流れるものであり、飲用可。

 ・祭神 -- 高?神(たかおかみのかみ)

 ・歴史

 創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。
 白鳳6年(666年)に、最も古い社殿造替えの記録がある。日本後紀に、延暦15年(796年)、東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したと記されている。
 『延喜式神名帳』には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として記載され、名神大社に列している。後に二十二社の一社とされ、保延6年(1140年)に最高位の正一位の神階を授けられている。
 永承元年(1046年)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055年)、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた。
 1871年((明治4年)、近代社格制度において、「貴舩神社」 として官幣中社に列格される。


 …と、こんな貴船神社であります。
 それでは、貴船神社から退散し、我が家へと帰る事に致します(^-^)//"

 

 

 

 

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