2022/11/06(日) 2022ふれあい文化祭「史跡巡り」 <4/5>

 

 

 

 

 

 松尾神社を後にしますと、次は、この近くに存在します法界碑へと向かいます。
 水呑歴史民俗資料保存会から貰った資料には、こんな記載がありました。

 ◆法界碑
 1836年 日蓮宗の南妙法蓮華経日蓮聖人
 1914年 浄土真宗の南無阿弥陀仏の二つが並んで建立されているのは、非常に珍しい。一般的には、親しみを持って「法界さん」と言っている。法界とは宇宙万物の総称であって、仏法の広大なことを言っている。


 WEB上で「法界碑」を検索しますと、

 ◆集落自治体の象徴・法界碑
 日本には、古来より集落の自主独立の精神が随所にありました。水呑に限らず、全国アチコチで、いまも「法界(ほうかい)」という石碑が象徴的に建っています。西洋や中国なら町全体を城壁で囲むところです。
 「法界」とは、どの集落自治体も自分たちで守り、「どんな旅人もここへ一歩でも入れば集落の掟に従え」という仏教用語です。


 …と、こんな記載がありましたけど、うん、うん、この説明は仲々分かり易くてイィですネ(^.-)☆
 でも、洗谷の、この法界碑のように「日蓮宗・南妙法蓮華経」「浄土真宗・南無阿弥陀仏」の二つが並んで立っていますのは、仲々お目に掛かれませんし、実に珍しいですネ。
 それでは、次に、「樋門」へと向かいます。その途中、時代を感じさせます民家が…これを横目に通過となりましたけど、通りすがりに1枚パチリとなりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「日蓮宗の南妙法蓮華経日蓮聖人」「浄土真宗の南無阿弥陀仏」の二つの法界碑を後にしますと、
 樋門→下部のみ残されました「道標」→旧鞆鉄道橋跡→旧洗谷橋跡→法界碑…と巡ります。

 ◆樋門--1919年(大正8)の大洪水で芦田川の決壊により被害甚大であった。この樋門は洗谷地区の排水用として造られたものであるが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要になっとしまった。しかしこの樋門は、今なお保存している。江戸時代のものは市内には残っていないので、堤防の規模として知ることが出来る貴重な遺構である。
 ◆旧鞆鉄道橋跡--大正15年当初の芦田川に架かる橋げたの一部である。
 ◆下部のみ残されました「道標」--当初は、ここに設置されましたのでしょうけど、現在は、上部を、妙見教会の石鳥居への石段上り口近くに移転されております。
 ◆旧洗谷橋跡--初期の洗谷橋の一部である。ちにみに、この道が堤防であった。
 ◆法界碑--造立1812年(文化9年)南妙法蓮華経日蓮大菩薩 水呑町内には、14の法界碑がある。


 …と、水呑歴史民俗資料保存会から貰った資料に記載。
 旧鞆鉄道橋跡・旧洗谷橋跡の橋げたが残ります「この道が堤防であった」…とは、当時の堤防は現在よりも随分低かったようですねぇ〜何となく、不思議な気持ちにも(^-^)/
 旧洗谷橋跡近くには、こんな説明板が…

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土ふるさと水呑∴ト内

 ◇洗谷妙見山 別称 金鶏山・宝山

 福山近郊で妙見山といえば、標高約120mある宝山に鎮座する『洗谷妙見山社』が著名である。
 境内の玉垣から眼下の福山平野を望めば、西方に芦田川・正面に福山市街・東方に瀬戸内海・南方に熊ヶ峰山系と、近郊には見られない絶景が広がる。
 また西方には大砲岩、山頂には烏帽子岩があり、草戸稲荷の石鳥居も洗谷宝山産である。
 開基は天保14年(1843)で日蓮宗妙顕寺35世日英上人が大阪府能勢町の能勢妙見山から北辰妙見大菩薩の分像を勧請して安置したのが最初である。
 沿革妙見大菩薩を本尊とする洗谷妙見山社(妙見教会)は、旧峻な断崖に石垣を築き張り出した長石の上に玉垣を立てる珍しい工法で境内を拡張している。
 石垣は三期に分けて築かれており、玉垣は明治元年の銘が彫られている。
 北辰妙見大菩薩の他に稲荷大明神、清正公大神位が祀られ、その後日蓮聖人や三〇番神・鬼子母神が祀られている。
 梵鐘は妙顕寺と重顕寺と合わせて水呑三梵鐘の一つ。
 妙見菩薩像は崖上に中国風の甲冑をまとい、右手に受け太刀に構え、左手に金剛不動印に結んだ「利剣受け太刀」の煩悩を打破する勇ましい坐像である。参道は東と西と北の参道が順次整備され、参道に石鳥居が寄進され難所には石段が次第に建設された。

 ◇洗谷橋

 初代の橋は明治26年(1893)以前にあり増水すると水に浸かり洪水の度に流失する木製の橋であった。
 二代目は昭和31年(1956)にコンクリートパイル橋ができました。
 三代目は現在の橋が昭和55年(1980)に水呑大橋として生まれる。此れは県道福山鞆線であります。
 初代と二代目は現在の橋より上流200mの所にありました。
 水呑町史にはこんなことが載っていました。
 明治26年(1893年)10月14日の大洪水で橋は流され、草戸村からは芦田川の堤防が決壊したのは下流の洗谷橋が原因だと草戸村から訴えられ一審は敗訴し二審では水呑の勝訴となった此の事からも明治26年にはすでに橋は有った物と思われます。

 
--- 水呑町史参考 水呑小学校調査書参考 令和4年2月吉日設置 ---

 

 

 

 

 旧洗谷橋跡の市道を挟み対面には、何処からでも眼に付きます黄色のハデな建物が(^-^)
 以前には、ここには「松坂産業」の看板が掲げられました建物がありましたけど、数年前に取り壊され、この黄色の建物に(^-^)
 2020年3月末に竣工し、医療法人社団花園医療福祉会(花園町1丁目)が運営にあたるサービス付き高齢者向け住宅「清風花苑」≠ェ、2020年5月1日に開業です(^.-)☆

 法界碑を後にしますと、次は「洗谷貝塚」に向かいます。
 護岸工事で整備されました土手を進んでおりますと、途中に笑えます光景が…工事終了直後に、多分、三角コーンでも置かれて暫くは通行禁止となっていましたのでしょうけど、人とワンchanの足跡が(^-^)
 多分、ワンchan連れて散歩中の方が、つぃウッカリ歩かれましたのでしょうねぇ〜
 苦笑しながら進んで行きますと、皆さん立ち止まり、なにか説明に耳を傾けておられます。う〜ん、何の説明でしたのでしょうねぇ〜聴いておりませんから記憶に有りません。う〜ん、残念(^-^;
 洗谷貝塚に向かっておりますと、畑には色づいた美味しそうな柿が…鳥に食べられますのでしょうネ、ネットが張ってありました。
 もぅ数年前の史跡巡りで、「この界隈の畑から、未だに石器時代の鏃が出て来ます…」と、農作業中のご高齢の女性が言っておられたような(^_^)v
 洗谷貝塚に到着しますと、こんな説明板が…


 ◆洗谷貝塚

 此の場所と南西山側の丘陵地が洗谷貝塚で、約八千年以前の縄文時代早期以降の土器が出土している。貝塚の規模は東西約八十メートル・南北約六十メートル余りと貝塚面積は県下最大級の約四千平方メートル・貝層は一メートルに及び、福山湾内で人類が最初に定住したと想定される貝塚である。
 貝塚は昭和八年七月、水呑正月校の橘高武夫先生によって発見され、同月最初の発掘が行われた。その後、府中中学の豊元国先生に依る数回の発掘を経て、昭和四十六年八月の県・市合同発掘調査により、県内最初のサヌカイト(安山岩の讃岐石・坂出市金山産)原石(三十四枚四十五キログラム)の集石遺構が発見された。
 集石遺構に着目された広島大学の竹広文明教授は、更に研究され縄文後期の石器素材の剥片剥離技術を「洗谷型技法」と命名され昭和六十三年に学会に発表された。
 金山産のサヌカイトは、洗谷から周辺の貝塚や遺跡へ分散された拠点集落で、縄文の石材流通史を究明する上で学術上重要な貝塚である。

 出土遺物
 縄文式土器(早期〜晩期)安山岩原石・石斧・石匙・石槍・石鏃・叩石・ハイガイ・カキ・ハマグリ・アサリ・カガミガイ・人骨・獣骨・魚骨・骨鏃

 -- 水呑学区まちづくり推進委員会 平成21年度 キーワード事業 --
 
-- 水呑歴史民俗資料保存会 平成21年9月 --

 今回の史跡巡りで貰った資料には、

 ◆洗谷貝塚

 塚発見は昭和8年7月頃、水呑尋常高等小学校の橘高武雄訓導によって洗谷貝塚と水呑浜貝塚が同時に発見された。
 沼隈郡教育委員会会長小川清一氏、浜本鶴濱氏橘高訓導に依って発掘計画が立案され、誠之館中学の先生と生徒約50名の協力もあって同年月の30日と31日に発掘が実施された、その時の発掘遺物は小学校に持ち帰り、現在は水呑交流館と水呑歴史民俗資料保存会の資料室に保管されている。直径70〜80mにおよび面積と出土遺物量は県内随一と呼称されている。専門家は「Aクラス級の遺跡」と高く評価されている。
 その後、1935年(昭和10年)と1941年(昭和16年)に、府中中学校豊元邦彦先生に依って発掘が勧められた。その時出土した石器や土器などは現在府中高校に保管されている。1970年(昭和45年)貝塚の東部の一部が埋設され、宅地造成が進められたことから、1971年(昭和46年)8月、県・市教育委員会によって50uが緊急発掘された。その際特に注目されたのが、貝塚が破壊されず保管状態が良好な点で、その際出土した土器はミカン箱20箱分に達した。また、従来の土中で発見されなかった安山岩(サヌカイト)の集積遺構が2ヶ所で発見された。縄文遺跡や貝塚でその量は安山岩34枚で重量45kgの多量であった。
 安山岩は縄文人が鉄の代わりに使った石器は硬度と加工性が要求された石であったが、福山地方では適当な石がなかった。四国の坂出市にある金山から産出した安山岩を使用していた。用途は包丁や矢尻の代わりとして使用した。洗谷縄文人は、60km先の瀬戸内海を渡り原石を持ち帰り、貝塚の下地に保管し、石器加工を行い周辺の縄文人に分配していた可能性が高い。多量の安山岩が発見され、他の地域との交流があったことが裏付ける。また、県内最古の港であったことは確かで、海と備後を結ぶ交易中継拠点だったようである。
 以上の発掘結果を総合的に判断すると、貝塚は約8000年前より始まり、安住して漁労や採取を行い生活していた。出土土器は縄文早期・前期・中期・後期・晩期に及んでおり、他に2400年以前に始まる弥生土器、1700年以前からの1300年前にかけての古墳時代の土器も出土している。出土品は石鏃(やじり)・石斧・石槍・石刀・安山岩原石や各種魚の骨、鹿・猪等の骨、各種の貝殻など多岐にわたっている。


 …と、こんな記載が(^-^)
 WEB上に「洗谷貝塚」で検索しますと、こんな記載も…


 ◆水呑町の洗谷・浜貝塚(縄文早期の可能性はあるか?)

 --- 2009年8月7日 備陽史探訪の会「備陽史探訪:149号」より 小林 定市 ---
 -- https://bingo-history.net/archives/12290 --

 (1)貝塚の説明看板新設計画
 私が住んでいる福山市水呑町には、縄文貝塚遺跡の洗谷貝塚と浜貝塚がある。両貝塚の東側は現在住宅地となり海から遠ざかっているが、江戸時代までは瀬戸内海と接する海岸線に立地していた。
 両貝塚は昭和八年七月、水呑小学校の橘高武夫先生によって同一時期に発見された。最初の発掘調査は同月の三十日と三十一日、両貝塚が同日に実施された珍しい貝塚である。
 発掘の成果は、両貝塚から出土した土器が縄文後期と晩期が多かったことから縄文後期の貝塚と認定されてきた。貝塚の発見が他の遺跡と比較して遅かったためか、話題となる新発見や特徴も見当たらず、文化遺産としての評価が低かったためか史跡としての指定も行われず、説明看板も設置されるに至らなかった。
 説明看板の無いことを打開しようと、水呑町の民俗保存部会では本年度に看板の予算を計上し秋の文化祭までに完成させるよう計画された。そうした経緯から私に対して、貝塚関係記録の収集と分散遺物の調査並びに資料作製の支援要請があった。

 (2)『福山市史』通説の見直し
 昭和三十八年に発刊された、『福山市史』上巻・資料編・第一編の原始時代「備後の縄文遺跡と遺物」の遺跡の古さを判定する縄文土器遺跡編年表に依ると、洗谷と浜貝塚は揃って縄文後期と記載されている。此の記録は四十六年も以前のもので、今後作成する説明看板には、新研究と新資料も加え新視点から最新の情報を詳しく記載する運びとなった。
 昭和四十年代福山市では急速に市街化が進められ、洗谷貝塚周辺でも農地の埋立て工事が進められた。そこで昭和四十六年八月、県と市の教育委員会に依る緊急発掘調査が行われた結果、従来の縄文後期土器以外に縄文早期・前期・中期の土器も新しく出土した。石器は四国坂出市金出産の安山岩の「集積(集石)遺構」が県内で最初に発見され四国との交流が明らかにされた。
 私の家は洗谷貝塚近隣地の西方に建てられており、専門家によって作製された縄文貝塚推定図面からは除外されていた。平成九年春、我が家では初孫の誕生が日前となり、庭先の農地に設置していた危険な野壺を取壊すことに決定。取壊す際壺周辺を試掘したところ多量の縄文後期土器の発掘に成功した。
 農地の表面には遺物は殆ど見当たらなくても、稀には土中に古代の遺物が包含されているものである。野壺を取壊し試掘した結果、貝塚が当初の推定面積より宏大であったことが立証された。
 平成十年三月、私宅から二・五km南にある浜貝塚の車道を通っていたところ、偶然母屋改築の為の基礎工事に伴う底土(縄文土)の山積みを発見した。早速土地所有者の伊東さんに、「水呑町のため迷惑を掛けないから底土の調査をさせて欲しい」とお願いしたところ了承され、調査を行ったところ縄文の土器・石器・貝類・獣骨などを採取した。
 発掘を終えた際には、浜貝塚が昭和八年の発掘面積より宏大であったことに満足していた。しかし、土器の中には明確に縄文後期の土器とは相違する、土器の厚さが三〜五mm程度と薄い土器片も出土、器厚の薄い土器は縄文後期より古い時代の土器ではないかと推定していた。
 この度浜貝塚の時代不詳の縄文土器の時代解明が必要となり、今春福山市にある県と市の土器等文化財に関係ある部署に、土器の年代鑑定をお願いしたところ好回答を得られなかった。

 (3)浜貝塚の縄文土器鑑定
 平成二十一年六月二十七日・二十八日の両日、東広島市の廣島大学構内文学研究棟において、「中四国縄文研究会二十周年記念大会。第二回西日本縄文文化研究会・環瀬戸内地域の打製石器石材利用」が、中四国縄文研究会。関西縄文文化研究会・九州縄文研究会によって合同開催された。
 大会の準備を進められたのは、洗谷貝塚の「集積遺構」から、中・四国地方の縄文後期の石器製作技術を解明され、洗谷型剥片剥離技術を学界に発表された廣島大学の竹広文明教授である。日本を代表される縄文文化研究の大家の集まりなので、私も大会に参加し浜貝塚の縄文土器の鑑定を行って頂けたら好都合と、願望を秘め竹広教授には無理は承知で大会に参加させていただいた。
 大会二日目の二十八日午後、第二部の合同討論シンポジューム「環瀬戸内地域の打製石器石材利用をめぐって」が開催されシンポジュームの司会を、京都大学の千葉豊教授と小南裕一教授が行われた。
 大会終了後同会場で、私が持参した土器の鑑定を司会された千葉教授にお願いしたところ快く引受けて頂いた。鑑定の結果は縄文時代後期・晩期の土器以外に、「縄文時代前期の磯の森式土器剥片十一個と、縄文時代中期の里木式土器剥片三個」があると鑑定していただいた。私が内心想定していた通り、浜貝塚は約六千年も以前から縄文人が定住していたことが明らかになった。
 浜貝塚の中心部は、江戸時代から鞆福山街道となっていたらしく、周辺地は宅地変更が早くから行われると同時に、江戸時代後期になると宏大な新田開発のため貝塚破壊は進行し貝塚の境域は不詳となった。浜貝塚の周辺地においては洗谷貝塚と同様、縄文早期土器の出土の可能性も夢ではなくなった。

 (4)洗谷貝塚の安山岩原石
 前述の洗谷貝塚の安山岩(サヌカイト)の集積遺構であるが、遺構は二カ所に有って原石の総重量は四十五kg余り、石数は三十四点もあった。集積遺構は県内の縄文貝塚や遺跡からは未だ発見されていない遺跡で、四国との交流を示す貴重な遺構と喧伝されてきた。
 集積遺構は県内の縄文史を解明する文化遺産として、当初は高く評価されたのであるが、残念なことに市民に一度も公開される機会も無いまま、福山城の収蔵庫に三十八年間も死蔵され現在に至っている。
 洗谷貝塚の集積遺構に着目された廣島大学の竹広文明教授は、昭和六十三年六月(『考古学研究』三十五巻に「中国地方縄文時代の剥片石器」―その組成。剥片剥離技術―)を発表された。次いで平成十五年二月、『サヌカイトと先史社会』と題し、洗谷貝塚の原石剥離の研究書を渓水社から刊行された。
 両書に依ると、
 サヌカイトは後期旧石器時代以降、瀬戸内を中心とした地域で石器の主要な石材として利用されている。瀬戸内技法という独特の横剥ぎの技法で、ナイフ形石器が作られている。
 と、瀬戸内最初の石器製作技術を解説されている。縄文時代に入ると中国地方の剥片剥離技術は変化し、早期の早稲田山遺跡(広島市東区牛田早稲田山)では、基本的には角礫・円礫といった原石を利用する。そのため安山岩・黒曜石・頁岩・流紋岩など多様な石材に対応した剥片剥離技術によって石器素材剥片を生産する石器製作技術である…
 と変化の跡を究明され、旧石器時代と縄文早期の石器製作技法の相違点を明らかにされた。
 更に縄文後期の剥片剥離技術として、洗谷型技法では金山産のサヌカイトと強く結び付いている。交互剥離による剥片生産も行われるが、石理の顕著な板状石材を素材として、石核の側面部から石理の強さを利用して効率的な石器製作がおこなわれていた…と新説を明らかにされた。縄文時代の後期になると縄文人の石器製作の敲打技術は進化しその時点での最高水準に到達していた。
 吾々素人目には、旧石器時代の石器と縄文早期と後期の石器の割れ具合に変化が無い様に見えても、剥片剥離技術は大変進歩していたのである。竹広教授は集積遺構を手掛りとして研究された石器の剥離技術を、洗谷型又は洗谷技法と命名された。
 考古学に於いては、最初に発見されたり最初に確認された遺跡名から型とか技法を名付ける慣例があり、集積遺構が糸口となり石器の剥離技術と貝塚名が結び付けられ洗谷技法と名付けられた。
 洗谷貝塚の安山岩原石の活用方々に付いて、昭和の発掘報告書には石器の剥片屑に関しては何の記載も見当らない。剥片屑は不良品として無視され記録に止められなかった。
 農地が埋立てられる以前の鞆鉄道の東側畑地と線路上には、表面が自色化した剥片の膨大な量の加工屑が散乱していた。同所は海抜三〜四mの土地で海岸からは十m以上離れていたものと推定する。白色系剥片は石器を製造した際の石屑で縄文工房の跡を物語る石屑であった。
 洗谷の縄文人は自給自足的な狩猟・漁猟・採集に加え、四国の金山から安山岩の原石を持帰り、原石の加工を通じて付加価値を高める工夫を行っていた。洗谷の集積遺構は県内の縄文石器の流通加工を考察する上で、学術上極めて重要な役割を果たしていたことが判明した。

 

 

 

 

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