2022/11/06(日) 2022ふれあい文化祭「史跡巡り」 <2/5>

 

 

 

 

 

 

 

 

 作品展を鑑賞していますうちに史跡巡りの集合時間が近づいて来ましたので、ソロソロ行かなくては…
 館内の廊下を歩いておりますと、常設の写真ではありますけど、またまた眼が向いてしまいました。何度も眼にしてはおりますけど、GONsanが幼少時に眼にしました景観もありますので、何度見ましても懐かしさが…
 福山〜鞆間を結びます軽便鉄道…瓶の蓋をレール上に置き、潰して貰って遊んでおりました当時が懐かしく蘇ります(^-^)
 せっかくの便ですから、交流館出口脇の歴史民俗資料館にも少しだけ立ち寄りです。
 本日の史跡巡りで向かいます「洗谷貝塚」の説明を走り読みとなりました。
 水呑にも戦時中まで古墳が存在しましたのですけど、残念ながら戦後取り壊され、現在は跡形もありませんのが実に残念ですねぇ〜

 ◆福山市水呑町の『洗谷貝塚』

 貝塚は古代(縄文時代・約8千年前)人類のゴミ捨て場のうち、当時の人々が捨てた貝殻が積み重なった物のことである。
 水呑町洗谷地区の西南山側の丘陵地が洗谷貝塚で、約8千年以前の縄文時代早期以降の土器が出土している。
 貝塚の規模は東西約80m〜南北約60mと貝塚面積では県下最大級、貝層は厚さ1mに及び福山湾内で人類が最初に定住したと想定される貝塚である。昭和8年水呑小学校の橘武夫先生によって発見され発掘が行われた。
 その後の調査で県内最初のサヌカイト(安山岩の讃岐石、坂出市金山産)の集積遺構が発見された。
 広島大学の竹内文明教授は縄文後期の石器素材の剣片剥離技術を【洗谷型技法】と命名。金山産のサヌカイトは洗谷から周辺の貝塚や遺構へ分散された拠点集落で縄文石器を研究する上で学術上重要な遺跡である。
 《出土遺物》
 ◇土器 -- 縄文式土器(前期〜後期)
 ◇石器 -- 安山岩原石、石斧(いしおの)、石叩(いしたたき)、石槍(いしやり)、石匙(いしさじ)
 ◇貝類 -- ハイガイ、カキ、アサリ、ハマグリ
 ◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨

 ◆福山市水呑町浜の『浜貝塚』

 貝塚は背後にある熊ヶ峰山系の妙顕寺山と龍王山のなだらかな傾斜地にあり、海抜3.4m、南北約70mの長さに至っている。
 昭和8年(1933年)水呑小学校の橘武夫先生によって発見された。縄文時代後期・晩期の土器と人骨一体に石器と多数の貝類が発見された。平成10年3月、貝塚前の市道工事中の残土から縄文土器に貝類が採取された。鑑定の結果約六千年前の縄文時代初期の「磯の森式土器」と縄文時代中期の「里木式土器」であることが判明した。縄文人は遺跡の中判明した。
 浜貝塚も試掘する場所を変えると、洗谷貝塚と同様に縄文早期土器が出土する可能性が濃厚となった。
 《出土遺跡》
 ◇土器 -- 縄文式土器(前期〜後期)
 ◇石器 -- 石鏃(いしやじり)、石斧、石棒、敲石(たたきいし)
 ◇貝類 -- ハイガイ、アンニシ、カキ、ハマグリ、アサリ、ツメタガイ
 ◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨

 ◆水呑にもあった『新立古墳』と『小水呑塚丸古墳』

 貴方は水呑にも古墳があったのをご存知ですか。少なくとも二墓の古墳が報告されています。
 古墳は、1400年以上も前の有力者、権力者の墓です。
 日本固有の墓とされる『前方後円墳』や『前方後方墳』、『帆立貝型古墳』、『四隅突出型墳丘墓』、『方形周溝墓』等があり、地方の古墳はその権力の大きさに応じて大和政権が型を指定したものを造ったとする学説もあります。
 字名から命名された『新立古墳』の調査は、平成9年1月に実施され、周囲7キロの王ヶ峰丘陵にあった古墳の一つです。
 古墳周囲は戦中、戦後にかけて畑に開墾され、埋葬施設である横穴式石室の天井石は取り除かれ、石室は農作業小屋として利用されていました。
 墳丘は西の屋根をカットし、東側のみ最大幅3m、最大深さ0.75mの馬蹄形状に周溝を巡らせ盛り土をし、墳裾の所々に1〜2m間隔に頭大の石材が配置され、築造時の古墳の範囲を示している。径11.5mの円墳と考えられている。
 埋葬施設はほぼ南に開口し、西側壁に袖を有する片袖式の横穴式石室であり、石材はすべて付近から産出する花醐岩である。
 出土遺物は玄室入口の東側で耳環二点一対、西側で須恵器平瓶一点が出土し、羨道埋土内からは須恵器杯片、鉄片が出土し、築造時期は出土品の特徴から六世紀後半から七世紀初頭と思われている。
 『小水呑塚丸古墳』は小水呑字塚丸にあった横穴式石室で戦時中には一部残っていたが、現在は全滅、消滅となっています。
 -- 参考文献『広島県遺跡地図Z』『新立古墳発掘調査報告書』--


 …と、こんな説明がありました(^.-)☆
 それでは、交流館から出まして、駐車場一角の史跡巡り受付へ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 交流館内から駐車場に出ますと、テントに向かって長い列が(^-^)
 A.M.10:00・P.M.01:00に、餅つきの実演・配布がありますから、そのお餅を貰うため、早くもお集まりの方々ですねぇ(^.-)☆
 GONsanは、史跡巡りの受付に向かいますと、既に皆さんお集まりでありました。ザッと見廻しますと、多分、総勢28名での史跡巡りとなりそうですネ。
 受付で、資料とお茶を戴き、創樹会sanのマイクロバスに乗車です。
 今回の史跡巡りは、Aコース・Bコースの2グループに分かれての実施のようで、Bコース申し込みのGONsanは、

 ◆Bコース
 集合時間--10:00 出発--10:10
 集合場所--交流館東隣空き地
 行程--交流館⇒鞆鉄道半坂駅の看板→妙見北の鳥居→松尾神社→法界碑→洗谷の看板→洗谷新田の水門→旧洗谷橋跡→洗谷貝塚→本木跡→宮ノ下洗谷新田⇒交流館(⇒バス・→徒歩)


 …と、こんなルートで巡りますようであります(^.-)☆

 ◆社会福祉法人 創樹会(社会福祉法人 創樹会)

 創樹会は、知的な障がいがある人たちが幸せに活きいきと生きていけるように、日々の生活を通して援助していく施設で、児童園・成人寮・通勤寮・デイサービス・居宅介護事業など多目的機能を有しています。
 園訓は素直で 明るく たくましく
 (支援のかまえ)
 ・いつも子供たちの心と身体をみつめていよう
 ・いつも子供たちの心になって考えよう
 ・まわりの物や空気が子供を動かしていることを忘れまい
 「みんなダイヤモンド」の思いを旨に、「活き活きと生きる人たちを心を込めて大切にする“福六の心”」と故田中了諦園長の言葉「ハングリーな心を忘れず、弾力を持ってことに臨む」気概を大切に、役職員ともども激動する障害福祉の環境の中で独自の「嬉しいサービス」を組み立てながら創設 60 周年に向け果敢に挑戦してまいります。


 …と、こんな「創樹会」sanでありまして、水呑学区の行事には何かとお世話になっておりますから、有難いですネ。
 マイクロバスは、「セブンイレブン水呑半坂橋店」の駐車場到着で、ここで下車。丁度、真ん前のこんもりした山が「中山城跡」ですネ。
 いよいよ史跡巡りがスタートで、まず向かいましたのが「鞆鉄道半坂駅の看板」の設置場所。ここから対岸の光小学校辺りまで鉄橋が架かっておりまして、鉄道廃止後も暫く鉄橋は残っておりましたけど、いつしか撤去。土手の橋桁・半壊の鉄橋は、GONsanが中学生時代には未だ存在しましたけど、これもいつの間にか撤去。当時の面影は凡て無くなりましたネ。

 ◆鞆鉄道

 明治43年11月18日より鞆・福山の野上駅間11.784kmの工事を始め、大正15年12月19日に鞆鉄道株式会社となる。水呑町内には葛城・水呑・妙見で妙見駅より直ちに東折して、芦田川の木橋を渡っていたが、昭和2年、芦田川改修工事の結果、水呑、草戸の境界に近いところに半坂停留所を作り、延長375.21mの橋架17m鉄橋を架けて上流を渡るようになった。
 昭和3年8月開通、これにより水呑町内の同鉄道の路線延長は、5,487mと伸びた。昭和2年12月に造った水呑薬師停留所と共に5ヶ所の乗降場になった。
 昭和2年7月25日より、鞆・福山間の乗合自動車の運行を開始し、汽車8往復、乗合自動車32往復であった。
 昭和29年2月28日を最後に鉄道事業廃止した。この期間約40年間中約30年間用いた、機関車の煙突の方が辣(らっきょう)汽車の愛称を受けていた。馴染み深き辣汽車は永久に姿を消した。
 -- 水呑歴史民俗資料保存会 資料より --


 ※ 当時の鞆鉄バスには、『鞆鉄』でなくて『鞆?』と車体に記載されていましたネ。これは、『鉄』を使用すると『お金を失うから』との理由からでした。これには、未だ子供でしたGONsanですけど、さすがに笑えましたネ(^-^)//"
 それと、中学2年の社会科の授業中でしたか…この『鞆?』の記載に先生が、「何事も、充分な確認を行い、その上で実施しなければならない。『鞆?』の表示は、確認が不充分だから誤記となる。皆は、くれぐれも留意するように!!…」ですから、これにも随分笑えましたネ。学校の先生も、専門外の事項に関しては、結構、無知なんだ…と(^-^)/"

 

 

 

 

 鞆鉄道・半坂駅舎跡に設置されました説明板には、こんな記載がありました。

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土「ふるさと水呑」案内

 ・半坂駅舎鞆鉄道

 此の半坂駅舎は水呑最北側にあって、1929年から25年間有りました。
 これに伴い鞆鉄道のはじまりを紹介してみます。
 山陽線が開通するまでは輸送の主力は船でありました。瀬戸内海航路の船は大型船で、福山港現在の福山ポートプラザ辺りには入れず、鞆港に入港して荷を降ろしていました。鞆港からは小船に乗せ換えて福山港に運んでいました。
 その荷物を鉄道で運ぼうと鞆・田尻・水呑の有志が考えて鞆鉄道を立ち上げたそうです。
 其の理由は、
 1891年には山陽線が開通しました。これに遅れること22年、1913年鞆から野上間が開通しました。(建設期間一年半)水呑村には葛城駅・水呑駅・妙見駅と三駅できていました。
 その頃は、妙見駅の北側をすぐ東に向いて芦田川の中州を北上して地吹荒神社の方向に走っていました。現在も橋の基礎の石垣が残っています。
 開通1年後には野上から福山間が開通。1929年には写真の様な半坂駅が開通。
 新しい鉄橋は、西岸の半坂三叉路の10m南方から東岸は光小学校グランド南端になります。(水呑薬師駅は1928年完成)
 -- 参考資料 水呑歴史民俗資料保存会・水呑小学校調査書 --

 ・洗谷郷二ヶ所の古い樋門

 洗谷郷には洗谷新田と宮之下洗谷新田がありました。
 樋門の一つは熊野街道の入口付近の水門です。もう一つは隋入付近の水門です。宮ノ下の地名は洗谷の八幡宮跡を意味しています。創建当初は海岸端に建立されていました。(一本木)八幡神社は1651年に現在の場所に移されました。
 1660年頃に芦田川堤防が築かれ周辺は水田となった。その時代に此の二つの水門は出来たのではないかと思われます。
 寛文11年(1671)6月に備後沼隈郡身の水呑村新開坪詰帳に記されてあります。
 此の水門は洗谷地区の排水と海水の浸入を防ぐ為に作られたものであろうが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要な物となってしまいました。
 しかしこの樋門は、今尚保存され、江戸時代の物としては町内には残っていないので、堤防の規模として知ることの出来る貴重な構造物であるとのことです。
 
 -- 1999年11月13日 福山地方史論集小林定市書参考・水呑史跡めぐり等参考 --
 -- 令和4年2月吉日 設置 --


 次に向かいましたのが、妙見神社参道入口の鳥居です。
 半坂・宮迫地区の方々が妙見神社に参詣されます時には、この「妙見北の鳥居」を潜ってお参りされましたのですねぇ〜
 この鳥居を過ぎますと、三叉路角に『←妙見道』の道標が…
 宮迫会館付近で右左折し芦田川土手側に進み、そして左折し歩行です。私たちが歩いています整備されました市道は、かっては鞆鉄道の軌道でしたのでしょうねぇ〜

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る  進む →