2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <6/12>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆V 弥生人の墓

 古墳時代になると各地に前方後円墳を代表とする古墳が豪族や王の墓として築造されますが、弥生時代には既に大規模な墳丘をもつ墓が出現しいます。
 さぬき市でも弥生時代後期から各地で弥生墓が発見されていますが、
  家族墓(極楽寺墳墓群)
  支配者の墓(奥10号墓、奥11号墓)
  乳幼児の墓(森広遺跡、寺田遺跡)
など、様々な性格の墓が見られ、また墓の立地場所は、
  丘陵上に築造されたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  平野に築造されたもの(森広遺跡、尾崎西遺跡、陵遺跡)
  墓域を形成するもの(古枝6号遺跡)、など様々で
  墓域を形成しないもの(寺田遺跡土器棺墓)など様々で有るのが特徴です。
 大規模な墳丘をもつ墓は支配者の墓と推測されますが、
  竪穴式石室を設けたもの(奥10号墓、奥11号墓)
  前方後円形の墳丘になっているもの(森広遺跡、尾崎西遺跡)
 古墳の葺石のように墳丘斜面に石材を使用しているもの(尾崎西遺跡、陵遺跡)などがあり、次の古墳時代の古墳へと発展していく要素を既に弥生墓の中に見ることができます。

 ◆巴形銅器

 明治44年(1911)5月、現在の森広天神境内東側を開墾作業中、地下約30cmの深さから8点の巴形銅器が一括して発見されました。森広遺跡の名前を広く学会に知らせた銅器であります。
 巴形銅器はその特異な形態から、スイジ貝を模したものとか太陽を表現したものといった推測がなされていますが、実態は不明です。
 弥生時代に属するものは全国でも22個しか発見されていない貴重な遺物であり、そのうち8個は、本町で発見されました。
 出土したものは、截頭円錐形(せっとうえんすいけい)の本体に左回りに旋回する7本の脚状の突起を付けたものです。形態的にみて頭部の径が大きく器高の低い3例と、頂部の径が小さく器高の高い5例の2種類に分類することができます。
 出土状況から一括して埋納したものと考えられています。
 これらは、現在すべてが東京国立博物館に所蔵されていますが、寒川町制施行40周年を記念して、複製品が作成されました。

 

 

 

 

 

 ◆原動機自転車

 昭和27年頃より普通の自転車にガソリンタンクのついた原動機自転車が流行した。
 しかし、背が高く、故障も多かったので間もなく完成車としてオートバイ・スクーターなどが登場。大川町では昭和33年には329台、昭和41年には1,358台とまたたくまに普及した。
 因みに、自転車は、明治22年(1889年)富田村西村、根本伊太郎がおろしたのが最初で、鑑札許可願が出されている。

 ◆踏車や数珠車

 讃岐の農業はおだやかな気候と肥沃な土地条件に恵まれて発展したきた。しかし、稲作にとって最も大切な灌漑水には恵まれず、毎年、水の不足を心配し、水の確保と水の上手な使い方について先人は汗を流し、智恵を絞ってきた。このことは県下にある18,620ヶ所の溜池の数と各地にある水利慣行や、雨乞い、水げんか、番水(水ブニ)、引水(共同で水を水田まで引く)、夜水(夜不寝番で潅水)、どびん水(旱ばつのときに「ドビン」に水を入れ稲株にかける)、線香水(線香に火を付けて、くい入る長さによって潅水の時間を測る)、むくち(田植えのとき荒起して潅水後、牛鍬で再度、耕して土を練り、水保ちをよくする)など水不足に因むことばや作業が、その歴史を物語っている。
 潅漑用の農具では古くは「淀車」「踏車」「はね釣瓶」などが使用された。淀車は深井戸や湧水池などから水を汲み上げるときに利用したものであり、別名「数珠車」とも呼ばれた。直径1.4m、幅0.9mの木製の車を2人で足を踏み付けて回し、車にかかった鎖状につながった十数個の汲桶が井戸の水を汲み上げて、桶に流し込み潅漑する。この淀車は明治初期では大型の揚水用具であり、一般には桶を1つはね木に付けて、2人で汲み上げた「ハネ釣瓶」が使われた。
 踏車は寛文年間(1661年〜1672年)大阪の京屋七兵衛により考案され、安永(1772年)のころに諸国に普及している。踏車は揚水の高さが30〜35cm程度で、小川からの揚水に利用した。階段状になっている注ェ板の外縁を1人で踏み下へ回し、注ェ板で水を前方にかき出すようにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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