2022/11/20(日) 「古代山城と古墳」を尋ねて香川県東讃地域散策 <2/12>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四国最古級という事が分かって来ています「うのべ山古墳」ですけど、この古墳の発掘はまだされておりませんとの事。
 未発掘とは予算の関係も有るのかもわかりませんけど、盗掘もされていませんでしょうから、将来の発掘調査が楽しみではありますねぇ〜でも、いつまでも未発掘のままなのかも(^-^)
 そもそも古墳は、時の権力者のお墓ですから、見栄えも随分考慮し造られているでしょうし、この「うのべ山古墳」も、海辺から見える方向部分だけ大きく造られており、後円部の裾も広げてあるようですからチョッと笑えます(^-^)
 そもそも、「前方後円墳」の向き≠ヘ特に無いようですから、後円部が東西南北のいずれに向こうと構わないのだと思うのですけど…
 古墳ド素人のGONsanが勝手にそぅ思っているだけかも分かりませんので、チョッとWEB上で確認です。
 うん、うん、こんな記述がありましたネ(^.-)☆


 ◆Yahoo! JAPAN 知恵袋
 --- https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275376312 ---

 ・2011/11/13 17:57
 前方後円墳の向きってありますか?写真だと円の部分が大体北から西にかけて向いてるのですが…
 出来るだけ詳しくお願いします

 ・ベストアンサー
 -- オニイサンさん 2011/11/13 19:13 --
 日本の墳墓の中で、前方後円墳の場合は特に固有の方角を向いているのが特徴です。従って「向きってあります」。固有の方角が其処に葬られた故人の命日をメモリアルしていました。従って、固有の方角が決め手になります。
 ところが、ニュースや観光ガイドとか歴史書では、有名な古墳を写真にします。しかしそのような写真を見れば、形だけで肝心の方角が殆ど明示されていません。
 写真を撮る場合は、円の部分を軸にしたほうが「様になる」と即断しての事です。従って其れを見た私たちは、一般市販の地図の上が北なので、写真の場合も「上が北だろう」と想像する事になります。しかし実際に各地の古墳を調べて行けば、決して「円の部分が大体北から西にかけて向いてる」ケースだけでは有りません。
 実際は各々が360度の方角の中の特定の方角を黙示しています。
 更に詳しく云えば、1年が366日ありますから366度の角度で固有の命日を地形に築きあげて黙示したのが古来太陽信仰の日本の葬法であり、墳墓の様式でした。
 ただ現在の日本の考古学は西洋史観による埋蔵文化財と云う見方が基本の為、太陽の位置や角度については無関心であり、特に現在の物質万能科学信仰の人たちは、「方位は迷信であり非科学的だ」と誤信しているために此の回答も無視される事でしょう。
 でも古墳には各々個別の方位が有った事実を知れば、埋葬された被葬者が誰かが明確に判明するのですから面白いですよ!!


 …と、こんな記述が。
 分かったような分からないようなアンサー≠ナすけど、要するに『向き』は自由と言う事なんでしょうねぇ〜
 この後で向かいます「富田茶臼山古墳」も、東西南北に関係なく、当時の街道から眼にして見栄えの良い感じで造られていますようであります(^.-)☆
 それでは、この辺でうのべ山古墳≠ニお別れで、次は富田茶臼山古墳≠ノ向かいます(^-^)//"


 ◆富田茶臼山古墳


 古墳時代前期後半になると、津田湾沿岸部における首長墓の築造活動は終焉します。入れ替わるように、中期初頭に内陸部に出現したのが、富田茶臼山古墳です。全長139m。四国最大の古墳です。
 津田古墳群においては、前期中ごろから徐々に畿内地域の影響が強くなり、そして、富田茶臼山古墳ではさらに発展します。畿内の巨大古墳とは以下の共通点が指摘されています。
 @三段に築造された墳丘。A周庭帯と周濠の存在。B陪塚(三基の方墳)の存在です。墳丘からは円筒埴輪、朝顔型埴輪、形象埴輪等が発見されています。埋葬施設については未調査です。
 富田茶臼山古墳は南部から下ってくる尾根の先端を利用して墳丘を築造しています。通常は尾根の主軸を墳丘の主軸として築造するのですが、この古墳は尾根の主軸と墳丘の主軸が直交しています。古墳の側面(北側)を意識した造りになっています。これは三基の陪塚の位置関係からも伺えます。
 なお、後円部登り口横に、弥勒菩薩の石仏が祀られています(西岡の弥勒菩薩)。かって古墳そばの池から出土し、のち現在地に移し祀られたそうです。鎌倉時代後期から南北朝時代の間の作と推定されています。さぬき市指定有形文化財(彫刻)に指定されています。

 
-- 当日貰った備陽史探訪の会℃送ソより --

 

 

 

 

 

 道の駅「みろく」≠ノ到着しますと、ここでバスから下車。歩いて「富田茶臼山古墳」へと向かいます。

 
◆道の駅「みろく」

 ・駐車場 -- 大型4台、普通50台、身障者用2台
 ・問い合わせ先 -- 0879-43-0550
 ・営業時間 -- ベーカリー、乳製品等(物産館) 9:00〜17:00
 ・定休日 -- 水曜日

 道の駅「みろく」は、さぬき市大川町のほぼ中心に位置し高松と徳島を結ぶ主要幹線道路高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道♂いにあります。緑地公園、情報室などがあり、人々に憩いの場としてご利用いただけるよう誕生しました。観光インフォメーションで、市内のみどころ・物産品などの情報を提供しています。


 …と、こんな道の駅ではありますけど、時間の関係で、ここはバス駐車場として利用するのみのようでした(^.-)☆
 高松長尾大内線(県道10号線)さぬき東街道≠跨ぎます歩道橋を進んで行きますと、前方の正面方向に、こんもりとした山が…ここが「富田茶臼山古墳」のようであります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 富田茶臼山古墳の南側に到着し、まずは前方部に向かいます。
 この古墳は東西に主軸で、前方部が西側に、後円部が東側に位置します。

 ◆富田茶臼山古墳


 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 富田茶臼山古墳(とみだちゃうすやまこふん/とみたちゃうすやまこふん)は、香川県さぬき市大川町富田中(とみだなか)にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
 四国地方では最大規模の古墳で、5世紀前半(古墳時代中期前半)頃の築造と推定される。

 ・概要

 香川県東部、長尾平野東縁の低丘陵縁部に築造された大型前方後円墳である。地元では墳丘上の埴輪に由来して「千壺山」とも称される。現在は墳頂に妙見神社が、後円部東側に弥勒菩薩が祀られている。墳丘北側の一部は県道10号線の建設のため削られているほか、墳丘の一部では開墾・住宅建設による改変を受けているが、その他の部分では概ね良好に遺存する。これまでに1989年度(平成元年度)に古墳域の、1993-1996年度(平成5-8年度)に周辺域の発掘調査が実施されている。

 墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は139メートルを測るが、これは四国地方で最大規模になり、第2位の規模の渋野丸山古墳(徳島県徳島市、105メートル)に比べても大きく傑出する。墳丘表面では埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・家形埴輪、推計3,000本)のほか、葺石(2段目・3段目のみ)が検出されている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされているほか、南側・北側には周庭帯も有し、周濠を含めた古墳の全長は163メートルにも及ぶ。埋葬施設は不明であるが、明治期に後円部墳頂で土俵を設置しようとした際に石室の天井石が掘り当てられたと伝えられ、竪穴式石室の存在が推測される。なお、前方部側では陪塚として方墳3基も認められている。

 この富田茶臼山古墳は、古墳時代中期前半の5世紀前半頃(一説に5世紀初頭頃)の築造と推定される。讃岐地方の古墳の主丘(円部)の大きさは、古墳時代前期中頃までで直径30-40メートル程度(高松茶臼山古墳・猫塚古墳)であったが、前期後半の快天山古墳(丸亀市)で直径60メートル程度、中期前半の本古墳で直径90メートル程度と大きく飛躍する。同時に、本古墳に至ると前期古墳の地域色も薄れて畿内色を強めており、ヤマト王権から支援を受けた一方で王権への系列化が進んだ様相を示す。東讃地域に限ると、古墳時代前期には津田湾周辺における津田古墳群の営造が知られるが、それら古墳群の消滅と呼応して富田茶臼山古墳が出現しており、ヤマト王権と強く結び付いた富田茶臼山古墳の被葬者が東讃地域を基盤として強い勢力を有したことを示唆する。合わせて、当地は古墳の北側に古代南海道が推定される交通上の要衝になることから、沿岸部の海路(津田湾)から内陸部の陸路(南海道)への意識の移行を見る説も挙げられる。

 古墳域は1993年(平成5年)に国の史跡に指定されている。

 ・来歴

 延享2年(1745年)の『三代物語』に、「茶臼山」として日本武尊の墓に比定する説の記載。
 文政11年(1828年)の『全讃史』に、「仁徳帝陵」や「茶臼山」として、「茶臼山城」として記載。
 明治期、後円部墳頂での土俵設置の際に石室天井石を確認。
 1989年度(平成元年度)、発掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1993年(平成5年)7月26日、国の史跡に指定。
 12月18日、県営圃場整備事業に伴う試掘調査(旧大川町教育委員会)。
 1994年度・1996年度(平成6年度・8年度)、個人住宅建設に先立つ発掘調査(旧大川町教育委員会)。

 ・陪塚

 富田茶臼山古墳の陪塚(陪冢)としては、次の方墳3基が知られる。いずれも後世に削平を受けて現在は地面にほぼ表出しないが、1993-1996年度(平成5-8年度)の発掘調査で確認された。
 1号陪塚(北緯34度15分37.11秒 東経134度14分32.76秒)-- 長方形で、長辺16メートル×短辺14メートル。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 2号陪塚(北緯34度15分34.41秒 東経134度14分33.65秒)-- 長方形で、長辺24メートル×短辺20メートル。墳丘は2段築成。葺石・円筒埴輪が検出されている。
 3号陪塚(北緯34度15分33.18秒 東経134度14分34.37秒)-- 方形(推定)で、一辺20-24メートル。円筒埴輪が検出されている。葺石は不明。
 これら古墳3基の築造企画には富田茶臼山古墳本体の築造企画との一致が見られ、富田茶臼山古墳の築造当初からの計画的配置が推測される。

 ※ 陪塚

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 陪塚(ばいちょう・ばいづか、陪冢とも)は、日本の古墳時代に築造された古墳の様式。
 大型の古墳とともに古墳群をなす小型の古墳であり、なおかつ大型の古墳と同一の時代に、その周囲に計画的に付随するように築造されたとみなされるものを指す。中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造されたものもあると考えられている。


 …と、こんな「富田茶臼山古墳」であります(^.-)☆

 

 

 

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