2022/08/28(日) 福山城400年博≠ナ城内散策 <1/6>

 ■2022年09月01日10:31
 8/28(日)・コロナ感染への危惧の中福山城400年博≠ナ城内散策


 8/27(土)〜8/28(日)は、「福山城400年博オープニングイベント『開幕祭』」の開催でした。
 2日目の8/28(日)16:00から、嫁さん達、我が町の方々も「地域の伝統芸能」の部で踊られると言う事で、散策も兼ねまして、午後からは福山城行きとなりましたGONsanです(^.-)☆
 我が家を出ましたのは、P.M.1:00少し前でしたか…福山駅南口に到着しますと、まず向かいましたのが、福山城が一望出来ます「アイネスフクヤマの屋上庭園」でありました。
 エレベーターで8Fに上がり、福山駅前・福山城を眺望です。つぃこの前までは、福山城は工事用シートで覆われ工事の様子は伺えませんでしたけど、シートも外され久し振りにリニューアルされました福山城が(^_^)v
 こんな福山城の姿を眼に出来ますのは、いつ以来でしょうか…実に久し振り(^.-)☆
 どなたもおられません屋上庭園で、暫く眺望を楽しみますと、早速、福山駅構内を抜け福山城へ(^-^)
 構内を抜け駅北口に出ますと、福山城400年博の案内所が…ここで、観光パンフを貰い、早速、福山城散策がスタートです(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、福山城東側から上がって行きます事に。
 まずは、「福山城二之丸東側石垣」を見てみます事に…どなたおられないものと思いましたら、お一人、男性が案内板に眼を向けておられました。
 福山市民にとりましては、なんでもない石垣ですけど、観光客の方なのかも…

 ◆福山城二之丸東側石垣

 二之丸の東北隅に位置する鬼門櫓(外三番三重御櫓)と東坂三階櫓(外二番三重御櫓)、及びその間を結ぶ多聞櫓(渡櫓)を支える石垣である。東坂から五千石蔵へ続く通路として機能していた。
 福山城は、蔵王山系から南に延びる標高20mの丘陵先端部(常興寺山)を造成して、3段の石垣を築いた平山城である。また、この石垣は、山頂から東に向かって傾斜する自然地形を利用して、築かれている。
 この石垣の前面には、土手状の高まりがあるが、これは自然地形の名残であり、発掘調査(2021年(令和3年)実施)で石垣基部の状況が確認された。地山の硬い岩盤を掘り込んで、石垣の基底石と2段目の築石を置き、すき間にこぶし大の礫を詰めたうえに、地山由来の粘質土で丁寧に突き固め、基礎工事を行っていることが明らかになった。重量のある櫓群を支えるために、石垣が外側にはらみ出して崩れないよう、さまざまな工夫をしながら石垣を築いたことがうかがえる。

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、東上り楯門跡から上がり、今回のリニューアルで築城当時の鉄板張りとなりました福山城北壁を見てみます事に。
 その前に、水野勝成公にご挨拶ですネ(^.-)☆
 「水野勝成之像」の説明板は、テントが邪魔して全面を画像に納める事が出来ませんでしたけど、説明板にはこんな記載が…

 ◆水野勝成之像

 瀬戸内海の中央 福山湾岸に河口を開く
 芦田川 その広漠たる干潟を埋めて城下町となし ここに城を定む
 水野勝成は 元和五年(一六一九年) 備後十万石の藩主に封ぜられるや この町を開き 福山と命名す
 移封以来 民政に意を用い 広く領内に池溝を開削し 干拓を行い 耕地の拡大に努め 芦田川を改修し 水道を穿ち
 藩政の安泰に力を尽す また社寺を復興し 文化のミ揚を図り今日の福山の礎を築く
 市制六十周年の記念すべき年にあたり 銅像建立を発起し 先人の遺徳を偲び 明日への躍進を誓う

 -- 昭和五十三年四月建之 水野勝成公銅像建立期成同盟会 --

 ◆水野勝成

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 水野 勝成(みずの かつなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後国福山藩初代藩主となる。「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された。

 ◇初代福山藩主

 元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。
 備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。
 福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ天下普請同等の江戸幕府西国鎮衛の要所として築かれ10万石の城としては破格の巨城であった。

 福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。
 産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。
 特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。

 家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。
 水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。
 寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。


 …と、こんな水野勝成之公であります。
 天守の裏と言うか北側に位置しまして、天守の北壁をパチリです。ふん、ふん、築城当時は、こんな感じでしたのですねぇ〜

 

 

 

 

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