2021年 鞆の浦 de ART 2021 <13/13>

 

 

 

 

 それでは、この辺で圓福寺とはお別れで、鳥居のあります表参道を下りようかとも思いましたけど、来た道を戻り「福禅寺・対潮楼」に向かいます事に(^.-)☆

 ◆福禅寺・対潮楼

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12654/ ---

 渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947〜957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
 のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
 鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。

 ・「日東第一形勝」-- その賛辞に相応しい絶景
 この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
 ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
 ◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景

 ・海上安全と安産信仰を集めたご本尊・千手観音
 村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
 ◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美

 ◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/8466 ---

 ・鞆の浦の素晴らしい眺めを一望

 「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
 座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
 江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
 1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。
 多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。

 ◆福禅寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福禅寺(ふくぜんじ)は、広島県福山市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。山号は海岸山、院号は千手院。境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。

 ・沿革

 創建は平安時代の950年頃、空也による創建と伝えられる。現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立された。
 江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(日本一の景勝という意)」と賞賛し、1748年(延享5年)に正使の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた。

 この地の風景は対潮楼ができる以前からすでに朝鮮人に評価されており、1617年の従事官であった李景稜は「靹浦に到り、則ち最も明秀奇絶と為す」としている。他にも1655年の正使・趙?による『扶桑日記』、同従事官・南龍翼による『扶桑録』、同訳官・金指南による『東槎日録』、1711年の通事・金顕門による『東槎録』、同従事官・李邦彦による『東槎日記』、1764年の正使・趙?による『海槎日記』といった言及が現存している。
 1719年の製述官・申維翰が『海游録』にて言及するところ、「人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない」というものであった。しかしながら1711年よりあと、いつしか寺も対潮楼も、無住ではないながらも荒廃してしまい、つぎの通信使が1748年にこの地を訪れたときには使館として別の施設が指定されていた。一行はこの有様に憤慨、新しい使館ではなく船中で一泊したのち、正使であった洪啓禧は無理をいって福禅寺までおもむき、福禅寺の僧侶を慰めるとともにかつての使館を対潮楼と名付けた。
 この銘は福禅寺行きに同行していたうちのひとり、洪啓禧の息子で軍官でもあった洪景海が書写し、僧侶に与えた。現存する扁額の文字はこれを写したものである。また、洪啓禧らが即興で作詩をし与えたものもいくつか残っている。つぎの通信使が1763年に訪れたときは修復が成っていたと、先述の『海槎日記』には感慨とともに記載されている。
 いろは丸沈没事件の際、海援隊と紀州藩の交渉の場となった。

 ・文化財
 朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内(国の史跡)
 福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料(福山市重要文化財)
 木造千手観音立像(福山市重要文化財)
 木造地蔵菩薩半跏像(福山市重要文化財)
 木造役行者像及び二鬼(前鬼・後鬼)像(福山市重要文化財)

 …と、こんな「福禅寺・対潮楼」であります(^.-)☆
 何度も訪れていますので、中に上がりますのは今回はパス(^-^)
 境内には、「久保 極」sanのアート作品が…


 ◆久保 極

 ・1956年 -- 大阪に生まれる
 ・1978年 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業
 ・2008年 -- さわれないかたちをさわる 兵庫県立美術館
 ・2017年 -- シンガポール国際ミニチュア彫刻展
 ・2017年 -- 個展 ギャラリー勇斎(奈良)
 ・2018年 -- 台湾国際ミニチュア彫刻展
 ・2019年 -- 岡山現代彫刻の断片VOL3 奈義町現代美術館
 ・2019年 -- TOMONOURA de ART 2019(福山)
 ・2020年 -- 神宮の杜に集う彫刻家たち明治神宮廻廊(東京)
 ・2020年 -- イタリアという共通展 芦屋画廊kyoto(京都)
 ・2021年 -- 潮風にさそわれて 触れる彫刻展 木村眼科クリニック(福島)

 ◆彫刻家 久保 極について

 1956 -- 大阪に生まれる。
 1974 -- 18歳の時、横浜より、船 でナホトカに渡る。ナホトカよりシベリア鉄道でヨーロッパにはいる。目的地はイタリア。美術学校に入学の予定だったが、あてはなかった。イタリアを選んだのは物価が安かったからである。
 1978 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業。
 1983 -- 75〜ピエトラサンタの大理石の工房チェルビエッティにて職人より技術を学ぶ。この時、すべて自分の手で作りあげることを学ぶ。
 1984 -- シルクロードを放浪して 帰国。
 2019 -- どこにも、所属せずフリーランスで彫刻の仕事をする。一番得意とするのは、大理石の彫刻。そして御影石。具象はすばらしいものがすでに存在している。したがってつくるものは抽象彫刻である。岡山市在住(今の所…)

 「久保 極」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)/
 それでは、そろそろ我が家に帰ろう(^-^)
 ノンビリと市営駐車場方向に向かっていますと、途中、絵を描いておられます方が…GONsanなんぞは、眼には居ますもの凡てをパチパチと画像に撮るのみですから、こんな趣味がありますと、さぞ楽しいだろうなぁ〜と、羨ましく見つめてしまいましたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 んっ!?…こちらでも、もぅお一人が(^.-)☆
 こぅして、いつもお二人でアチコチ出掛けられ、写生を楽しんでおられますのかも…
 駐車までの帰路は、いつもは通りません路地をランダムにノンビリと歩いて…そぅしますと、こんな所に祠が…そして、その前にはウサギsanが…
 福山市鞆支所方向に進み海岸沿いに出ておりますと、「龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅」まで戻って来ましたネ(^.-)☆

 
◆龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12672/ ---

 1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬ら海援隊士が乗った「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」とが岡山県六島沖で衝突し、「いろは丸」が沈没するという事件が起きました。この『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。

 ・朝鮮通信使にも利用された鞆の津の代表的町家
 1764(宝暦14)年、11次朝鮮通信使が鞆を訪れた際に、対馬藩御船奉公輿添役や買物方三使附通詞が、この『桝屋清右衛門宅』に宿泊したと記録されています。当時の鞆の津は海運業で隆盛を極めていて、歓迎提灯の明かりで夜でも昼のようだったといいます。
 ◇往時の廻船問屋の雰囲気が宿る桝屋清右衛門宅

 ・商家の粋な見栄っ張り -- 前流れを長くして威容を示す
 「桝屋清右衛門宅」の屋根に注目。外観の側面から見るとよくわかるのですが、屋根の前側(前流れ)を伸ばして、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけています。こういった手法は鞆では19世紀以降に流行。
 商家の見栄っ張りな気風がよく現れています。
 ◇大棟を後方にずらし大きく見せる -- 商家の知恵ですね

 ・雰囲気満点 -- ここが伝説の龍馬の隠れ部屋
 東側納戸から2階に通じる階段を上り、天井裏の隠し空間へ。さらに奥の階段を進むと、そこには8畳ほどの畳敷きの部屋が!
 これが、龍馬が隠れていたと言い伝えられている部屋だといいます。龍馬の息を感じるような雰囲気が保存されていて、説得力十分!
 ◇忍者屋敷のような隠れ部屋 - ここに龍馬が…


 今までGONsanは、一度も、この「龍馬の隠れ部屋」に入った事がありませんけど、今回もパス(^-^)
 護岸に出ますと、釣りを楽しんでおられます方々に眼を向けながら一服です。
 ふ〜ん、チビッコ女釣り師ですか…イィですねぇ〜ひたすら獲物が掛かりますのを待っておられますけど、母親は傍らでスマホいじり…そのまた傍らでは、気持ち良さそうに居眠りの父親…
 ここもまた仲々イィ光景であります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一服しながら暫く周辺の景観に眼を向けておりまして、海面に眼を戻しますと、小魚が同じ場所でクルクル廻っておりましたネ(^.-)☆
 人間で言うなら、苦しそうにもがいていますかのように…
 どぅしたんだろう…と、海面を覗き込むように見つめておりますと、こんな姿がチビッコ釣り師の皆さんの眼に入りましたのかも…3人のチビッコ釣り師がGONsanの横に…
 そして、同様に「どぅしたんだろぅ?」と、海面を凝視です。
 その内、年長の釣り師が「網!網!!」と、下の男の子に指示。護岸から網ですくおうとするのですけど、あと少しのところで届きません。何度も繰り返しておりましたけど、どぅなりましたのでしょうネ。
 この段階で、GONsanは護岸から退散となりました。
 どうやら、この3人の釣り師の皆さんは、ご兄弟妹のようですネ。相変わらず、保護者のお二人は、スマホ・昼寝で忙しそうでありました。
 市営駐車場に戻り精算しますと、ふ〜ん、約4時間近く鞆に滞在のGONsanなのでありました(^.-)☆
 翌日の中国新聞朝刊には、この日の「鞆の浦 de ART」の様子が記事掲載に(^-^)//"

 

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