2021年 鞆の浦 de ART 2021 <9/13>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医王寺〜太子殿の石段は樹木の間を進んで行きますので、鞆の町並みを展望は叶いませんけど、途中、一箇所だけ可能な場所が。
 ここにはベンチも設けられまして、一息入れながらの眺望が可能です。ですからGONsanは、往路も復路でも、ここで一服となりました(^.-)☆
 境内にと戻って来ますと、医王寺とのお別れは表参道経由でとなりました。
 山門に降りておりますと、うん、うん、先ほどの若者が山門周辺でパチパチと(^-^)
 画像に撮りまくっておられましたネ(^_^)v
 そこでまた若者と合流し、平賀源内生祠へと向かいます事に(^-^)


 ◆平賀源内生祠(ひらがげんないせいし)

 --- 福山市 掲載日:2016年3月31日更新 ---

 ・県指定史跡 昭和15年(1940年)2月23日指定
 高松藩薬用方出身で蘭学者として知られる平賀源内は、諸国を遍歴し、鞆の溝川家に寄寓したことがある。この時、源内焼の製法を伝え、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったといわれる。この生祠は、溝川家が宝暦14年(1764年)に祀ったものである。

 ◆鞆の浦の観光スポット

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13531/ ---

 ・平賀源内生祠
 医王寺は鞆の浦の絶景スポットとして知られていますが、その医王寺の参道脇に潜むように平賀源内生祠があります。高松藩薬用方出身で蘭学者として知られる平賀源内は、諸国を遍歴し、鞆の溝川家に寄寓したことがあり、この時に源内焼の製法を伝え、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったといわれています。この生祠は、溝川家が宝暦14年(1764年)に祀ったもの。1940(昭和15)年に広島県史跡に指定されました。

 ・平賀源内と鞆の津(鞆の浦)
 1752(宝暦2)年、源内は長崎に遊学して蘭学の諸技術を学び、翌年、故郷の讃岐への帰途、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、鞆の津に陶器造りを伝授しました。
 源内焼きはオランダ製の釉薬を使ったといわれています。ただ、溝川家では陶器造りは行わず、鞆の津の伝統産業である鍛冶の「ホクボ」(火床)や壁土の原料として、その陶土を販売しました。
 平賀源内生祠の周辺には、今でも多量の土を採取した跡があります。

 ・平賀源内ってどんな人?
 1728-1779(享保13年-安永8年)【本草学者】その才能、行動、発想、すべてが型破り。不幸な死が惜しまれる。本草学者。科学者。戯作者。讃岐国出身。25歳で長崎に遊学、大坂で医学・本草学を学んだ後、1756年江戸に出た。中川淳庵、杉田玄白らと親交を持った。翌年から日本初の物産会となる薬品会を催す。源内焼き・火浣布・寒温計・エレキテル(摩擦起電器)を創作。風来山人の名で戯作者としても活躍、浄瑠璃本、また洋画なども手がけ、司馬江漢、太田南畝らに影響を与えた。1779年人を誤って殺傷し、獄死した。浄瑠璃『神電知渡』、談義本『風流志道軒伝』のほか、『物類品隲』が有名。


 ◆平賀源内生祠

 --- 県史跡 昭和46年2月23日指定 ---

 蘭学者、平賀源内(1728〜79)は讃岐・志度村(現・香川県さぬき市志度町)の生まれで、植物学・科学・劇作など多くの分野で活躍した人物です。長崎で学んだ帰り、鞆の浦の溝川家に立ち寄りました。その時、ここで陶土を発見し、オランダや中国の陶法を取り入れた源内焼の製法を伝えました。源内が自分の生前中に神として祀るように言い残したので、1764年(宝暦14年)、溝川家は三重の石塔の三宝荒神をまつりました。生存中に神としてまつることを生祠といいます。

 ◆生祀

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 生祀(せいし)とは、存命中の人間の霊を祀ること。生祠ともいう。功績があった存命中の他者の霊を祀る場合と、自己の霊魂を祀る場合とがある。

 ・概略

 -- 中国における生祠 --

 前漢の欒布が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また、石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりである。
 唐代では、現任の官員が碑や祠を建てることに一定の制限があった。『唐律疏義』によればみだりに生祠やコ政碑を建てたものは、「諸在官長吏實無政跡輒立碑者、徒一年(官吏で功績がないのに石碑を建てたものは、徒罪一年)」と徒罪一年の処分を受けなければならなかった。『日知録』では、唐は「當日碑祠之難得」と称し、石碑や祠を建てることが難しかったと語る。
 明代では、滕州市の百姓が、当地で清廉な政治を行い燕京に赴任することになった趙邦清を記念して、生祠を作ったところ、「?童白叟、羅而拜之(子供から年寄りまで、列をなして拝んだ)」という。
 明の天啓帝の時代、宦官の司禮監:秉筆太監であった魏忠賢は自ら政治を行って天下を支配し、媚びへつらうものや権勢を畏れるものは彼のために生祠を立てた。天啓七年(1627年)五月、国子監生の陸万齢は、「孔子は『春秋』を作り、忠賢は『要典』を作った。孔子は少正卯を誅し、忠賢は東林を誅した」ため魏忠賢は孔子と並び論じられるべきであると上書した。天啓七年四月、袁崇煥と兵部尚書の閻鳴泰は上奏して、魏忠賢の功コを讃え、前屯の両地に魏忠賢のため生祠を立てることを求めた。その後、魏忠賢の生祠は「天下にあまねく」、「祠ごとの費用は多くて数十万少くても数万を費やし」、「民の財を奪い、公けの金庫を侵し,伐られた樹木は数え切れない」という。黄運泰がを生祠作り塑像を迎えた時には「五拜三稽首」し、「文武の将吏を率いて階段の下に整列し、始めのごとく拝礼した」という。
 顧炎武が嘆いていうには「今の代には生祠を建てない官はいない。そして任を去ってから幾年も経たずにその像を壊し、その主人を替える。」という。

 -- 日本における生祠 --

 自己の霊魂を祀る生祀は、長命を得るため、あるいは死後に神となるために行われた。大国主命が自らの奇魂・幸魂を三諸山(三輪山)に祀った故事に由来するとされる。
 自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年-924)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め、祀ったことである。江戸時代、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例がある。生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。江戸時代に、山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
 生祀の研究は加藤玄智(1873年-1965年)が有名である。加藤によれば判明している生祀は670あり、新しい生祀は1931年8月、北海道日高国浦河町に祀られた西忠義(西義一の父)のものである。
 明治天皇の生祀は1876年(明治9年)宮城県石巻港に、1893年(明治26年)上伊那郡小野村の矢彦神社境内に、建立された。明治天皇、昭憲皇太后の生祀は1887年(明治20年)および1904年(明治37年)に2箇所に、大正天皇の生祀は1911年(明治44年)北海道日高国門別村に、貞明皇后の生祀は1913年(大正2年)広島県広瀬町に、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の生祀は1924年(大正13年)姫路市同心町に成立した。
 昭和天皇の生祀は1923年(大正12年)北海道十勝国本別村義経山上に、昭和天皇、香淳皇后の生祀は1928年(昭和3年)広島市広瀬町に成立した。


 …と、こんな平賀源内生祠を拝見後は、そのまま表参道を下って海岸沿いに降りてもイィのですけど、下りの参道を左折し路地へ。この路地を抜けますと、民家の間を斜めに横断するルートとなりますから距離短縮に。
 途中、以前はカフェでした場所が取り壊されて…場所的に、今では来客が少ないのかも…
 そぅしていますと、渡守神社御度所まで下りて来まして、この辺で若者とはお別れで、GONsanは地蔵院方向へ…若者は静観寺方向へ…
 別れ際、「貴方は、銀行にお勤めですか?…」と声を掛けますと、驚きながら、「えっ、何で分かるんですか!?」に、「ここまでの会話と話し方、職場は2年半程度で異動、色んなモノをカメラで撮りまくっている動き…等と、同類としての匂いから…」と笑いながら返しますと、若者は怪訝な顔でGONsanを見送ってくれましたネ(^-^)

 今からGONsanが向かいますのは、アート作品が展示されています鞆城跡なんですけど、その途中に「地蔵院」に立ち寄りとなりました。


 ◆地蔵院

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12665/ ---

 鞆城跡のこんもりとした高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

 ・全国でもここだけ!歯をのぞかせた観音様?
 地蔵院には全国で唯一、口元に歯をのぞかせている「木造十一面観音立像」が安置されています。左足を一歩前に踏み出し、今まさに苦しむ人びとを救いに行かんとする構え。尊いです。また金剛健歯観音とも呼ばれ、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。
 ◇わずかに歯を覗かせる観音様―衆生を慈しむ表情です

 ・静謐な中にやすらぎあり―、静かに佇む十三仏
 本堂の横には「仏庭十三仏・やすらぎ苑」があります。個性溢れる石仏がお祀りされていて、なんとも不思議な雰囲気を感じます。鞆の浦で見つけた、霊妙な地。ぜひ、この空気に触れてみて下さいね…さて余談。この境内には袈裟姿のタヌキの置物もあるんですよ。さあ、訪ねて見つけてみよう!
 ◇集まる石仏―梵字も相俟って、雰囲気あります

 ◆地蔵院

 中国地蔵尊霊場第八番です。全国で唯一、口元に歯をのぞかせている「木造十一面観音像」が安置されており、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。本堂の横には「仏庭十三仏・やすらぎ苑」があり、個性溢れる石仏がお祀りされていて、なんとも不思議な雰囲気を感じる事ができます。

 ◆地蔵院

 地蔵院は、鞆城の二ノ丸跡地に建てられました。
 山門は1700年代に造られ、今も残っている大変貴重なものです。全国で唯一歯をのぞかせている「木造十一面観音立像」は、広島県の重要文化財で、歯の健康を守る珍しい仏様と言われています。

 --- ふくやま国際交流協会 広島地域留学生会 ---


 …と、こんな地蔵院であります。それでは、早速、山門を潜り境内へ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆鶴林山 地蔵院

 宗派 -- 真言宗大覚寺派・金剛峯寺末(広島県史社寺志)・草戸明王院末(備陽六郡志)
 山号 -- 鶴林山
 開基 -- 宵真法師
 本尊 -- 木造地蔵菩薩
 住所 -- 広島県福山市鞆町後地 1323
 30世 -- 山川聡明師

 応永十五(1408)年以前の寺歴は不詳。
 応永年間(1394〜1427年)に宥真法師による中興。
 文安四(1447)年、越智通顕が瑞應寺に寄進したお経を室町幕府将軍・足利義昭の侍医・武田法印(竹田兵部)が天正十八(1590)年に地蔵院に「大般若経(全600巻の内、約380巻が現存)」を寄進。
 寛文年間(1661〜1672年)には荒廃し、落莫したが、
 天和元(1681)年、深宣法印が再興し、今日に至る。

 福島正則寄贈の両界曼荼羅、毛利輝元寄贈の唐画、涅槃像。『徳川将軍家より祈祷申附の古文書』が存る。
 本堂正面の秘佛地蔵菩薩は「中国地蔵尊霊場第八番」の御本尊。脇室の十一面観音は全国で唯一の歯吹観音で県重文に指定され、「鞆の浦古寺めぐり」の御本尊である。
 走島の壇徒が多い。

 ・【脇室の佛像】

 正面:十一面観音(金剛健歯観音)(県重文)
 右脇侍:不動明王
 左脇侍:毘沙門天
 室町初期の作であり、 中央の十一面観音は木造寄木造玉眼入り、白毫をはめ、化佛十一面は完存す。歯を見せている(歯吹き)ところから金剛健歯観音として信仰をあつめている。

 ・【金剛健歯観音】
 正しくは十一面観音菩薩様です。
 口を少しお開きになり、歯をのぞかせて(歯吹佛)衆生に対し金口説法し足を一歩踏み出して、悩み苦しむ人々をすぐにでも助けに行こうとなさっている極めてまれなお姿をした仏様です。
 この歯吹観音は全国でも当山のものがただ一体で、皆様の歯の健康を守護する佛様として信仰を集めております。
 ご真言《おんまかきゃろにきゃそはか》

 …と、こんな「地蔵院」であります。WEB上で『金剛健歯観音』を検索してみましたけど、画像は出て来ませんでしたネ(^-^;
 写真撮影が禁じられていますのかも…残念(^-^)//"
 それでは、地蔵院とはお別れで、鞆城跡に向かってみます(^-^)/"

 

 

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