2021年 鞆の浦 de ART 2021 <4/13>

 境内に足を踏み入れますと、3名の女性とご住職がお話し中でありました。ふくよかなお顔から、この方が副住職の鈴木省我sanなのでしょうネ(^.-)☆
 会釈しながらこの方々の傍らを通り抜け、本堂へ。
 本堂に上がり、振り返りますと、左右の壁面をスクリーン代わりに、2機のプロジェクターで映像作品を放映中でありました。本堂内では3名の方々が視聴しておられます。
 そんな中、GONsanは、映像アート作品よりも本堂内をジックリと拝観です(^.-)☆
 本堂内を一通り画像に納めまして、それでは映像作品を鑑賞しようと振り返りますと、いつの間にか副住職sanが…
 遅ればせながら、「本堂内を画像に撮らせて頂きました…」と許可を求めますと、「あぁ、イィですよ。ご自由に構いませんよ。でも、何処かでお会いした事がありますネ…」ですから、眼が点に(^-^;
 今まで、何度か鞆のお寺巡りをしておりますGONsanですけど、どちらのお寺でもご住職と会話しました事は一度もありませんから、どなたかと勘違いしておられますのかも…
 鈴木副住職sanも、暫し、記憶を呼び戻しておられますようなお顔で…
 そして、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…貴方は、玉泉寺の総代をしておられますか?…」ですから、もぅビックリ。
 難波前ご住職の通夜と言いますと、令和元年の11月でしたから、既に2年近くも昔の事に…
 この通夜にはGONsanも出掛けておりまして、最初、玉泉寺境内から通夜が始まりますのを待っておりましたけど、ズッと立ちっ放しもしんどいですし、本堂内に眼を向けますとイスの空席が目立ちましたから、何の躊躇も無く本堂へと上がり、正面に向かって左側端に座りましたような(^-^)
 そして、通夜が始まります前に、スマホを取りだしパチパチと…
 そぅそぅ、思い出しました。本堂の正面に総代・役員の皆様、右側にご親族関係者、左側に日蓮宗関係のご住職の皆様…と、ご列席でありました。
 そのような厳粛な環境下で、お構いなしにパチパチやっておりますGONsanでありました。
 勿論、本堂内の皆様凡てを洩れなく画像に(^.-)☆
 そぅですねぇ、ご列席のご住職の皆様にスマホを向けています時でしたか…お一人のご住職と、スマホのレンズを通してバッチリと視線がガッチンコ(^-^)
 あまりに眼光が鋭いこの方をズームアップで更に2枚ばかりパチリ。
 うん、うん、今から当時を思い出しますと、その方は、多分、鈴木副住職sanでしたのでしょうねぇ〜ですから、GONsanを憶えておられましたのかも…
 GONsanにとりましては、鈴木副住職sanは大勢の中の単なるお一人でしたけど、あぁ言う場で特異な動きをしています者は、礼儀知らずの不心得者として強く印象に残られましたのでしょうねぇ〜
 それにしましても、この日は、帽子もマスクも着用していますにも拘わらず、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…」ですから、本当に驚いてしまいました(^-^;
 「私は総代でも何でもなくて、単なる檀家の一員です。空席がありましたから、座っていました。写真撮りますのも容易ですし…」と弁解しますと、一層、GONsanの顔を、改めて、まじまじと見つめておられましたネ(^.-)☆
 その内、話題は映像アート作品に…
 「福山大の学生sanの作品ですけど、仲々素晴らしい出来栄えですよ…一見の価値ありですよ…」と、副住職の太鼓判。
 なら早速…と、スクリーンに眼を向けましたら、エンドロールの段階でありました。
 副住職sanはと眼を向けますと、既に他の方達と談笑中。これをイィ事にサッサと本堂から退散のGONsanなんでありました(^.-)☆
 山門に向かっておりまして眼に入りましたのが、「南無日親大聖人」の石碑でありました。


 ◆日親

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。

 ・生涯
 上総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門された。
 同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。長享2年(1488年)に入寂、享年82。

 ・日親と不受不施義
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。

 ・日親の活動
 日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。


 …と、こんな日親上人であります。
 日蓮宗のお寺巡りをしておりますと、時たま、綿帽子のような白い綿を頭に被りました仏像を眼にしますけど、この仏像が「鍋かぶり上人」であります。
 顕政寺sanと、日親上人sanとの間に、どんな関わりがありますのか分かりませんけど、立派な「南無日親大聖人」の石碑が存在ですから、次回、再訪の機会がありましたら、お尋ねしてみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顕政寺を出ますと、お隣りは「法昌山 妙蓮寺」ですネ。
 妙蓮寺sanでは、特にアート作品の展示もありませんから、本堂のみ拝観です(^-^)
 山門を入りますと、庭園の手入れをしておられます方が…きっと、この方がご住職sanなのでしょうけど、会釈して擦れ違いです(^-^)
 WEB上で検索しますと、こんな記載が…


 ◆広島県福山市鞆の浦 法昌山妙蓮寺 本堂

 --- https://omairi.club/spots/106437/point ---

 ご本尊は釈迦如来様で、鬼子母神と日像菩薩が両脇に祀られています。本堂内には立ち入ることが出来、書置き御首題が置かれています。
 この日は、御首題箱には1枚もなく、再訪して頂く事にしました。

 ◆散歩道:妙蓮寺(広島県福山市鞆町)

 --- https://kattinwalk.com/2020/11/12/s-tomo-myouren/ ---

 広島県福山市鞆町にある「法昌山 妙蓮寺(みょうれんじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
 鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
 古寺通りで少しクランク状になってる辺り、静観寺の隣、ささやき橋に接する所に建っていました。道を挟んだ向が公園になっていました。
 当初予定に無かったのですが、現地で頂いたご朱印マップでご朱印があると分かったので、帰りに寄って見ました。
 山門入ってすぐ、御住職と思われる方が庭いじりをされていたので聞いてみたら、「本堂の前においてあるので、ご自由にどうぞ」との事でした。本堂の入口前に長テーブルが置かれていて左端の木箱の中にご朱印が入っていました。

 …と、こんなお寺でありました。
 そして、山門を出て静観寺に向かっておりますと、手前に「ささやき橋・山中鹿之助首塚」が…


 ◆ささやき橋

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12659/ ---

 静観寺のすぐ近くに、ささやかに盛り上がった小さな橋があります。ほんの1、2歩で渡れてしまう、橋ともつかない、橋?「ささやき橋」。ここに、悲恋の伝説があるのです。
 1500年以上も昔のこと。応神天皇の招きで、百済から王仁博士(わにはかせ)が、大陸の進んだ文化や技術を伝える渡来人の一行と共に来日してきました。さて、その一行が鞆の浦に寄港した時のことです。大和朝廷は、“接待官”として武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)を、“官妓”として江の浦(えのうら)を派遣。この出逢いが、悲劇の始まりでした。
 ・今も昔も、忍び難きは恋心
 渡来人の接待役として派遣された和多利と江の浦でしたが、ふたりは役目を忘れるほどの恋に落ちました。当時の鞆の浦は“七島(ななしま)”と呼ばれる、橋で繋がれた中州でした。その橋のたもとで、夜ごと、ふたりは逢瀬を重ねます。
 しかし、間もなく上官の知るところとなり、結果、もはや抱き合えぬようにと後ろ手に縛られて、ふたりは海に沈められてしまったのです。
 ◇昔の鞆は7つの島から成っていたんですね
 ・ささやかれる、悲恋の伝説
 ふたりが海中に没して、いつしか、ひとつの噂が実しやかに流れるようになりました。橋のたもとで、毎夜、和多利と江の浦の“ささやき声”が聞こえるというのです。そして、誰ともなしに、この橋を「ささやき橋」と呼ぶようになりました。
 時は過ぎ、鞆の“七島”も地続きになりましたが、地元の人たちは、この悲恋を語り継ごうと、橋のあった場所に碑を建てました。それが現在の「ささやき橋」です。
 ◇今も昔も恋心は、変わらず…

 ◆ささやき橋

 --- 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/hirosima/sasayaki.html ---

 【ささやきばし】
 鞆の浦にある石畳の道の途中にある橋である。ただし2歩もあれば渡りきってしまうほどの短さであり、おそらく欄干がなければ全く道の一部と思って通り過ぎてしまうような橋である。
 第15代応神天皇の頃、百済より王仁博士が来日。一行を乗せた船が鞆の浦に到着した。朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。
 ところが、和多利と江の浦が密会していた橋のたもとで、夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという噂が立った。そしてその橋はやがて“ささやき橋”と呼ばれるようにあったという。
 <用語解説>
 ・鞆の浦
 古代より潮待ちの港として栄える。『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残されている。
 ・王仁
 『日本書紀』によると、応神天皇15年に百済より日本に来る。また『古事記』によると、『論語』と『千字文』を日本にもたらしたとされ、日本に漢字と儒教を持ち込んだ最初の人物であるとされる。

 ◆山中鹿之助首塚

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13528/ ---

 山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人。
 天正六(1578)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、山中鹿之助は囚われの身になりました。7月17日の護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害され、備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をする。鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、当時の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられています。鹿之助の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられており、現在でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。

 ◆山中鹿之助首塚

 --- 観光スポット https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=27 ---

 山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人です。高梁川の阿井の渡で討たれた鹿之助の首は鞆城に送られ、鞆にいた室町幕府最後の将軍・足利義明が首実験したと伝えられています。

 ◆静観寺の前に立つ、山中鹿介の供養塔、と、ささやき橋

 --- http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/yamanaka/index.html ---

 戦国時代の武将・山中鹿介は尼子氏の再興に生涯をかけ、織田信長の援助をのもとに、毛利氏と対決していた。
 美作・備前の国境にある播磨の佐用郡上月城に、尼子勝久を将として、鹿介は立て籠もりました。山陰道から吉川元春、山陽道から小早川隆景の毛利氏の軍勢三万に取り囲まれ、秀吉の援軍は三木城攻撃で手いっぱいもあって、孤立無援の上月城は落城しました。1578(天正6)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、鹿介は囚われの身になりました。
 7月17日護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害された。
 備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をした。鹿介の首は備中松山城より鞆城へ送られ、その時、鞆にいた最後の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられる。
 鹿介の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられる。今でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。

 首塚の右手に見える小さな橋が「ささやき橋」。
 官妓「江の浦」と都から来た役人が恋に落ち、人目を忍んで愛をささやいたが、それが噂となり、罪を問われた悲恋の舞台だと言い伝えられてます。

 ◆山中鹿之助首塚(やまなかしかのすけくびづか)

 --- 幕末トラベラーズ https://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-tomo-shikanosuke.html ---

 お家再興をめざす尼子家の遺臣・山中鹿之助は、毛利家打倒のため織田信長の支配下にはいって奮戦したが、播磨国上月城の戦いで毛利方に捕らえられ殺されてしまった。その首が鞆の浦に運ばれ、(前)将軍の足利義昭、毛利輝元がこれを確認(首実検)したあと、現地に葬られた。これが現在首塚として残っている。

 ・山中鹿之助首塚

 戦国時代、中国地方の覇権を目指した毛利家と尼子家の争いは、永禄9年(1566年)第二次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いで毛利側が勝利したことで決着がついた。しかし、尼子家の忠臣・山中鹿之助は何とか主家を再興させようと、織田信長に助力を依頼した。信長が毛利を滅ぼせば尼子家は復活できると考えたのだ。
 織田家中で中国戦線担当だった羽柴秀吉は、天正5年(1577年)に獲った播磨国上月城(こうづきじょう)の守備を山中鹿之助らにまかせた。ところが翌天正6年(1578年)に毛利軍は3万の兵力で上月城を攻囲、鹿之助の奮戦もむなしく上月城は落城。鹿之助は捕らえられ、護送される途中、備中国阿井の渡しで殺されてしまった。
 当時毛利家は対信長戦のため、本陣を鞆に置いていた。また信長に京都を追放された室町幕府15代将軍足利義昭も鞆にあって毛利家の庇護を受けていた。山中鹿之助の首は鞆の毛利本陣に送られ、足利義昭、毛利輝元の首実検を経て、静観寺住職により当地に葬られたのだった。
 ちなみに山中鹿之助は、正しくは「山中鹿介(本名・山中幸盛(ゆきもり))」。

 …と、こんな「ささやき橋」と「山中鹿之助首塚」であります。
 山中鹿之助首塚を通り過ぎますと、静観寺の山門が…


 ◆静観寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12660/ ---

 鞆の浦で最も古く、そして最も多難なお寺「静観寺」。創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7,000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 ところが、相次ぐ戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。
 ・松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇
 江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
 ◇ご本尊の頬には、その時のヤケドの痕が残っているとか…
 ・鞆ねこも寄りつく、ご住職のお人柄
 この「静観寺」には、積もった歴史以外にも、注目ポイントがあります。それが、ご住職のざっくばらんな“鞆語り”。ご住職が洒脱な口調で、鞆の歴史を教えてくれるんです。そのご住職のお人柄は、人間だけでなく、ねこも呼びよせちゃう。にゃあと鳴いて、いつの間にか境内に居ついてしまった、このねこ君。きみにも、ここは居心地がいいんだね。
 ◇静観寺、鞆ねこもお気に入りの癒しのスポットです

 ◆静観寺

 --- https://nipponianippon.or.jp/story/scene1/1341.html ---

 ・住職に教わる歴史 静観寺の物語り

 かつて、商業港として華々しく栄えた港町。長い歴史を経てもなお、色濃く残る独自の文化がある。鞆でもっとも古い寺の住職に聞く、鞆の歴史の物語り。
 ただ、静謐、鞆の町の静かな古刹・静観寺の物語り。鞆湾から鞆町後地に向かって、北に伸びる一本の通り。
 この「寺町通り」と呼ばれる南北の筋には、その呼び名に相応しく、各宗派のお寺さんが軒を連ねている。
 その「寺町通り」のちょうど真ん中あたり、山中鹿之助の首塚を正面に見て、それから、左に視線を移す。すると、年を経た本瓦葺きの山門が、さわりと目に映じる。臨済宗・正覚山静観寺の表門。
 門をくぐると、空気の流れが、しんと変わった。時をぴたりと留めたかのような清閑な境内には、わずかな葉擦れの音があるばかりだった。ただ、静謐。
 ぼくは、陽の光に透けた桜若葉を眺めながら、古刹の佇まいを見せる本堂へと、足を進めた。

 ・ご住職の洒脱な「鞆の寺町語り」

 時代の趨勢と共に歩んだ、鞆の寺町の歴史。本堂に入ると、ご住職が迎えてくれた。その福相に浮かぶ笑顔は、とても大らかだ。居室に通してもらい、そこでお話を伺う。
 「ここの山門を境に雰囲気が、しんと変わったような気がしました。なんだか、境内の空気が止まっているみたいな。」
 ぼくがそう言うと、ご住職は放胆に答える。「この町自体が止まってるようなものだからね」あははと笑い、それから、ご住職の「鞆の寺町語り」が、はじまる。
 「この静観寺は鞆で一番古いお寺で、八〇六年に最澄が開基したと伝えられています。それまでの仏教ってのは、政治、つまりは貴族のものだったんだけど、最澄、空海あたりから、庶民にも拡まっていった。
 そうすると、この鞆の町にも、あれよあれよとお寺が増えてね、最盛期、江戸中期には四十数軒のお寺さんが建っていた」
 ぼくは、「この小さな町に?」と驚いて聞く。「そう、猫の額のような、この鞆の町の中に」
 ご住職は笑いながら続ける。「檀家のために建てられた寺っていうよりも、豪商や大名のマイテンプルっていうかね」
 マイテンプル?
 「昔の鞆港は、今で言うと横浜並みの港湾機能を持った港でね。補給もメンテナンスも出来た。で、船乗りが遊ぶ場所もいっぱいあると。鞆は、そういう商業港として、発展を遂げたところだった」
 ぼくは、多くの商人や船乗りたちが活発に行き交う、往時の鞆港の喧騒を思い浮かべた。
 「でも、当時はまだ、入船の詳細なタイムスケジュールなんてなかった時代で、『待ち船は、どうも桜の散るころには来そうだ』なんてね」
 ご住職はかんらと笑いながら、続ける。「しかも、支店や出張所なんて概念もなかった。そうすると、地方から鞆港に出張ってくる商人なんかは、今と違って車があるわけでもなし、だから、前もって宿に泊まり込んでなきゃしょうがないと」
 なるほど、だからマイテンプルなんだ。
 「そう。自分のお寺を建てとけば、そこを根城に出来る。あるいは西国あたりの大名が、参勤交代の中継基地として使う。また、朝鮮通信使が江戸に向かう途中に、大使はどこ、副使はどこ、通訳はどこ、って按配で役職ごとに分宿させたりね。そういうふうに、ホテルとか旅館みたいな機能が、その頃のお寺にはあったわけ」
 さすがは、当時の国際的商業都市だ。そういったお寺さんの宿泊サービスからは、からっとした開放的な合理精神が感じられる。
 「でも、明治に入って以降、海運から陸運へと物流のあり方が変わって、いっしょに商業の考え方も変わっていった。そうして、いわゆる豪商はみんなこけた。加えて、廃仏毀釈(きしゃく)。
 まあ、仏教弾圧って言うと少し語弊があるけれど、そういったことによって、鞆の寺院の数はいっぺんに減って、二十数軒に。後に、さらに統廃合されて、今残ってる寺は、十九軒」
 十九軒―減ったとはいえ、町の面積あたりの数を考えると、まだまだ十分に多い。
 「まったく、四十軒もお寺が建ってた頃は、庶民はどこに住んでたんだっていうね」
 ご住職は、そう言って、また気持ちよく笑った。


 それでは、静観寺の山門を潜ってみます事に(^-^)//"

 

 

 

 

 

 静観寺の境内に足を踏み入れますと、まず眼に入りますのが、都築繪理菜sanのアート作品です。
 WEB上でお名前を検索してみましたら、こんな記載がありました。

 
◆都築繪理菜 -- 2021.09.01 --
 短大で日本画を専攻。卒業後は一般企業に就職し カメラマンやフラワーアレンジメントなどの仕事に従事。近年では 画家として立体作品を加えながら各地で展示会を開催している。

 …と、こんな簡単な記述が(^-^)
 境内に展示の作品を、暫し拝見となりました(^.-)☆
 本堂の方に向かいますと、玄関入り口の引き戸に『TOMONOURA de ART 三舛明子先生 彫刻作品堂内展示』の表示が…まずは、外から本堂内の作品を拝見となりました(^-^)
 三舛明子sanをWEB上で捜してみますと、

 ◆三桝明子

 多くの作品は顎から上の頭像などで、見る人が作られていない部分を想像することにより、様々な印象をいだき易いように制作されています。また作品の表情も、明確な喜怒哀楽を示すことはなく、曖昧さを残すことで、一層見る人の想像性を刺激しているようです。
 見る人の自由度が大きいということは、多くの想像に耐える器を持つ作品であることでもあります。それは、作家が人物のフォルムや内面性などを追い求める中で、ある一瞬ではない普遍的な造形を研ぎ澄ました結果、可能にした表現だと思います。

 ◇Profile

 高知市出身広島市在住
 1996年 -- 第4回ひろしまナイト美術大賞展 優秀賞受賞(’01,’02同)
 1997年 -- 第5回ひろしまナイト美術大賞展 大賞受賞
 1998年 -- 個展 (星ヶ岡アートヴィレッヂ・高知)
 1999年 -- 第51回広島県美術展彫塑部門 奨励賞受賞、第28回現代日本美術展立体部門 入選 (東京都美術館ほか)
 2000年 -- 第6回公募「広島の美術」「みんなが選ぶベスト賞」受賞、個展(はつかいち美術ギャラリー・広島)、『ハノーバーとヒロシマの美術交流展V』(ギャラリーKUBUS・ドイツ)
 2001年 -- 第7回公募「広島の美術」優秀賞受賞
 2002年 -- 『広島の今・女性作家の鼓動』(東広島美術館・広島)
 2003年 -- 個展(ルネッサンス スクエア・兵庫)
 2004年 -- 『樹の声展』(海田町ふるさと館・広島)、第17回チャリティーのためのミニアチュール展(ルネッサンス スクエア〜(現在))
 2006年 -- 『HUMAN CHESS』(ギャラリー椿GT2・東京)
 2008年 -- 八千代の丘美術館 第7期入館作家(広島)
 2009年 -- エマージング・ディレクターズ・アートフェア「ウルトラ002」(スパイラル・東京)
 2014年 -- 第10回現代作家展(ルネッサンス スクエア,2005年 第7回〜)
 2015年 -- 『ART FACE』(アトラクト・ラルゴギャラリー・高知)
 2016年 -- 『ART FACE』(ラピスギャラリー・広島)、『ART FACE』(ここちComfort Gallery 器・広島)
 2017年 -- 個展(ルネッサンス スクエア・兵庫)、『ART FACE』(ギャラリー椿GT2・東京)
 2018年 -- 個展(ラピスギャラリー・広島)、第6回新県美展・招待出品(広島県立美術館・広島)、Art Wave Exhibition vol.51〜創造のイノベーション〜(レクトヴァーソギャラリー・東京)、『littie different life』個展(ここちComfort Gallery 器・広島)
 2019年 -- オフィス展示・3ヵ月 (株式会社システムアリカ・東京)、廿日市市市制施行30周年記念企画展出品((はつかいち美術ギャラリー・広島)、八千代の丘美術館TOKUBETU企画展【H・I棟】三桝明子展(八千代の丘美術館・広島)、鞆の浦deART 2019(Vol.8)出品(後山山荘,トモテツバス車内・広島)
 2020年 -- 第12回現代作家展(ルネッサンス スクエア)


 …と、こんなアーティストでありました(^-^)//"

 

 

 

 

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