2021/12/12(日) ふくやまピース・ラボ主催「ピースウォーク」 <1/4>

 ■2022年01月02日10:40
 12/12(日)は、ふくやま・ピースラボ主催の「ピースウォーク」に参加


 福山市の広報誌に掲載がありましたので、ヒマに任せて、12/12(日)は、ふくやま・ピースラボ主催の「ピースウォーク」に参加となりましたGONsanです(^.-)☆
 当日は、A.M.10:00に福山市人権平和資料館に集合ですから、定刻10分前に出掛けまして、幸いに、さほど広くもありません駐車場にスペースがありましたので、難なく駐車でラッキー(^_^)v
 集合までに、まだ時間がありますから、周辺の景観を数枚パチリ。福山城は耐震改修工事中で、工事用シートでスッポリ覆われております(^-^)

 ◆福山城は当時の姿復元に向けて耐震改修工事中!でも見どころあります

 福山城は広島県福山市にあり、江戸時代最後に建てられたお城になります。正式名称は「鉄覆山朱雀院久松城(てきおいざん すざくいん ひさまつじょう)」また日本全国に数あるお城の中で、新幹線停車駅に最も近いのが福山城です。
 福山駅ホームからすぐ近くに見える場所に位置しており、駅の北口からお城の石垣が見え、西の方向、北の方向に広がっています。

 ・福山城築城当初の様子と戦争による被害からの復元
 1622年に完成した福山城は、天守閣の規模ではベスト10に入ります。現在は入り江も埋め立てられていますが、当時は入り江がお城まで通じており、船で直接荷物を運ぶことができたということです。
 時代は明治となり、1873年(明治6年)廃城令が出されたことにより、廃城となりました。
 福山城の文化的な価値は、昭和に入ってから再評価されることとなりました。しかし、太平洋戦争で1945年(昭和20年)8月8日に福山は空襲を受け、天守閣と湯殿は消失してしまいました。その後1966年(昭和41年)に、天守閣が復元されました。

 ・福山城の大きな特徴である天守北側の鉄板張りの復元
 2022年に福山城は築城400年を迎えます。当初の福山城は砲撃に対して北側の防御が手薄だったための対策として、全国で唯一天守閣の北側に鉄板張りが施されていました。
 1966年に福山城博物館として開館した天守閣は、この鉄板張りがありませんでした。
 この築城当時のデザイン復元に向け工事が進んでおり、完成すると『城の天守北側 鉄板張り』が再び姿を現します。2020年8月からお城全体に工事用足場が組まれて幕で覆われていますが、お城の周囲は散歩できます。


 …と、WEB上にはこんな記載がありますけど、2020年秋から工事が始まり、築城400年を来年迎える福山城で、「令和の大普請」と呼ばれる改修工事が進んでいます。天守は高さ33メートル付近まで工事用の足場に取り囲まれておりまして、新たな姿を現すのは今春になる見通しと言われています。4月頃には、生まれ変わった福山城が姿を現しますのでしょうけど、楽しみではありますネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久し振りに、福山市人権平和資料館周辺の景観を画像に納めましたので、集合時間も近付きましたし、そろそろ人権平和資料館に入らなくては…
 今まで、人権平和資料館を訪れます機会はありませんでしたから、初めて館内に(^-^)
 入館しロビーの受付で署名です。その際に、「E-mailでの申し込み、有難うございます」と、わざわざお礼を言われましたので、「んっ!?」のGONsan。えっ、参加者の皆さんは、どんな形で今回のピースウォークに申し込みを?…こんな疑問も生じましたけど…お尋ねはしませんでしたけど…ふ〜ん、電話で申し込みされますのかも…
 受付を済ませ資料室に入りますと、ここには、福山空襲時の色んな資料が…
 後で、主催者から頂いた資料に眼を通していましたら、ローカル都市・福山が大空襲を受けましたのには、三つばかりの理由があるのですねぇ〜知りませんでしたけど…
 何で、これほどまでに福山市内が焼夷弾で破壊されましたのかは少々不思議でしたけど、こんな疑問が解消されまして、チョッと嬉しさも(^-^)//"

 これらは、当日、「ふくやま・ピースラボ」sanより頂きました資料です(^.-)☆
 福山市人権平和資料館の館長さん、そして、ふくやま・ピースラボsanのご挨拶・本日の行程等のご案内が終わりますと、いよいよ、福山城公園やその周辺の戦争遺跡を巡ります「ピースウォーク」がスタートとなりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 スタート間もなく、立派な山門の前を通過です。
 ふ〜ん、GONsanは今までこの門から入った事はありませんけど、この山門が備後護国神社の正式な入口なのでしょうか?…う〜ん、分からん(^-^;
 山門を過ぎ、暫く高野山福山別院方向に進んで行きますと、石垣の前でストップです。戦時中には、この石垣に三箇所の防空壕が掘られていましたとの事です。
 そして、「高野山福山別院」へ。
 当日頂きました資料には、こんな記載が…

 
◆高野山福山別院

 遍照山龍華院といい、本山は和歌山県北部の高野山金剛峰寺です。1884年(明治17年)8月5日に高野山真言宗の備後の基幹院として創建されました。福山空襲により本堂は全焼し、現在でも本堂基壇石、鐘楼台座、手水鉢、本堂に通じる石畳などに空襲の跡が残っています。
 空襲当時、近所は家屋が密集しており、その建物疎開の材木が石畳の上に積まれていたため、材木が長時間燃え、焼かれた石が赤くなり劣化しているところが焼け跡だとわかります。


 …との事であります。
 説明を受けながら境内を拝見しますと、うん、うん、至る所に焼かれた石が赤くなり劣化している箇所が見当たりましたネ。

 

 

 

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