2021/01/25(月) 岡山県井原市野上町「波形岩子安観音・金魚岩」散策 <3/3>

 

 

 「浪形岩子安観音」横の市道を少し(100〜150m)下って行きますと、市道左側の斜面に「金魚岩」の案内表示が…この案内表示板手前の路傍に車を駐め、ここから歩いて「金魚岩」へ(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 案内表示に従って上がって行きましたら、スグに「金魚岩」が存在します山頂の広場にと到着です。
 広場中央部の奥側に岩が…
 近付いて行きますと、うん、うん、これが『金魚岩』ですねぇ(^.-)☆
 金魚岩の傍には、ベンチと資料箱が…早速、資料を一部頂きです(^_^)v
 この資料には、こんな記載がありました。

 ◆金魚岩(きんぎょいわ)
 -- 2千万年の時代を経て山頂に現れた自然の造形 --


 金魚岩は、この近辺に産出する「浪形岩」(なみがたいわ)と同じ貝殻石灰岩(かいがらせっかいがん)でできています。そして、この岩には次のような歴史があります。

 1.堆積と凝結
 今から約2千万年前、このあたりが「古瀬戸内海」(こせとないかい)と呼ばれる暖かく浅い多島海であった頃に、ハネガイなどの生物の死骸が海流の働きによって特定の場所に集められました。その後、地殻の強い圧力により固められて団塊(だんかい)状の貝殻石灰岩となりました。

 2.浸食による造形
 長い年月の間に、あるときには海岸での波浪(はろう)や風雨、また、あるところでは地下水などにより、貝殻石灰岩の塊はさまざまな形に浸食されていきました。この付近にある貝殻石灰岩が今日「浪形岩」と呼ばれているのは、このことに由来しています。

 3.隆起と露出
 200万年前ごろの土地の隆起によって、「浪形岩」は、現在の標高約250メートルの場所に押し上げられました。その後、表土が風雨の浸食を受けたことにより、浪形岩の一部は地表に露出しました。戦前、金魚岩の周辺には同じような岩の露出が数十ヶ所見られ、大きなものは十畳(じゅうじょう)ほどもあったと言われています。

 4.破砕の危機
 昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。
 この敷地内には少なくとも3ヶ所の採掘跡のくぼみが確認出来ます。

 5.整備
 近年、「干し柿の里」として山の上地区に多くの人が訪れるようになったことから、この地域周辺の散策等をいっそう楽しんでもらえるように、町内の方々の協力も得て、あらためて整備したものです。
 
 ※ お知らせとお願い
 ・ここは私有地ですので、環境の保全と美化にご協力下さい。
 ・「金魚岩」は欠けやすいので、硬いもので力を加えたり衝撃を与えたりしないで下さい。
 ・冬季の落葉時には、南西方向に鞆の浦(とものうら)付近の瀬戸内海が眺望できます。
 -- 平成28年8月 地権者 --

 ◆参考年表
 -- 小田地区の歴史に関するおもなことがら(奈良時代〜江戸時代) --

 ・奈良時代
 口分田(くぶんでん)を割り当てるための条里制(じょうりせい)の区画が日置谷から中小田にかけて整備される。(7世紀後半)

 ・室町時代
 この地の南朝勢力を駆逐した北朝(室町幕府)方は1369年、幕臣小松秀清(のち小田と改姓)を地頭職(じとうしき)に任命。秀清は神戸山城(こうどやまじょう)を築城し、武荅(むとう)神社を整備する。以後226年間、小田氏が小田を治める。
 秀清の次男信清は、京都に戻って仏門に入り「正徹」(しょうてつ)と名乗る。東福寺などに仕え、当代きっての臨済宗の歌僧として名を馳せる。のちには足利幕府において「源氏物語」の講義を担うまでになる。(15世紀前〜中頃)
 小田政清は、高越城の伊勢氏、猿掛城の穂田氏に援軍を頼み、吉田方面から山口地区へ進入してきた村上氏の軍勢を中の才の戦いで破る。(16世紀中頃)

 ・安土桃山時代
 毛利氏による三村氏討伐(備中兵乱)では、吉川(きっかわ)元春、小早川隆景など毛利勢の主力が小田の岩屋山城や田鶴山(たづやま)城に布陣。(1574)
 羽柴秀吉による備中高松城水攻めに対して小田氏は毛利方として参戦。(1582)
 豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に参戦。釜山の守備を担う。(1952)

 ・江戸時代
 江戸時代の期間を通じて天領(幕府直轄地)と庭瀬藩領を繰り返す。
 宿場町である矢掛を補助する「間宿」(あいのしゅく)としての役割(助郷役:すけごうやく)を堀越(ほりこし)地区が担う。(人や馬の手配、休憩場所の提供など)
 高瀬舟が小田まで運航されるようになる。(17世紀前半)
 岩屋山城の千手(せんじゅ)観音をまつる大市の最中に堀越で大火が発生。数十戸の家が焼失する。(1720)以後、小田の大市は中止される。
 庭瀬藩の圧政に対する「小田郡14ヶ村強訴」に小田からも参加する。(1823)

 (参考にした文献)
 ・『小田郡誌(上・下)』(小田郡教育会 1972年)
 ・『矢掛町史』(矢掛町史編纂委員会 1982年)


 ふ〜ん、そぅでしたか…
 「昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。」との事。金魚岩の存在しますこの土地は、個人所有の私有地との事ですけど、この金魚岩だけは大切に保護して来られましたのですねぇ〜
 当初から何ら手も加えられてはなく、自然のままなんでしょうけど、うん、うん、まさに『金魚岩』ですネ\(^o^)/

 

 

 

 

 この金魚岩…こぅして見れば見るほど確かに金魚に見えますネ(^.-)☆
 金魚岩の眼の辺りには、100円・10円・5円等の硬貨のお供えが…地元の方…訪れました方…どなたか分かりませんけど、心ある方のお供えなのでしょうネ。
 充分、金魚岩を拝見致しましたので、それではこの辺で退散です(^-^)//"

← 戻る  Contentsに戻る  トップページに戻る