2021/06/22(火) 矢掛町「下道氏墓」& 真備町「琴弾岩・まきび公園・箭田大塚古墳」散策 <7/10>

 

 

 

 

 

 吉備公廟の脇には、奥に続きます道がありました。よく分かりませんけど、この道を進みますと「八田神社」に向かいますのかも…
 「吉備公廟」の裏側には、何やら石碑らしきモノが設置されてありました。何にも説明板もありませんから、サッパリ(^-^; 文字が刻まれました石碑もあるのですけど、読めないし、何の事やら…これらを横目に進んで行きますと、「忠魂碑」が…

 

 忠魂碑には、「陸軍大将一戸兵衛揮毫」と刻まれておりますけど、こんな「陸軍大将一戸兵衛揮毫 忠魂碑」は、アチコチでよく見掛けます。福山市でも駅家町周辺に数ヶ所…そして、井原市にも結構ありますし、特に岡山県内には数多く存在しますようであります(^.-)☆
 ですが、GONsanはこの方を存知上げないので、WEB上で検索してみますと、こんな方でありました(^_^)v

 ◆一戸 兵衛

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、安政2年6月20日(1855年8月2日) - 1931年(昭和6年)9月2日)は、日本陸軍の軍人。教育総監、軍事参議官、第1・第4・第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長等の公職に就く。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級。

 ・経歴

 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、1876年(明治9年)3月陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月少尉に進級する。1878年(明治11年)2月歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。1883年(明治16年)6月大尉に進み歩兵第8連隊中隊長、1885年(明治18年)5月歩兵第10旅団参謀、1887年(明治20年)11月の歩兵第12連隊付を経て1888年(明治21年)2月少佐に進級する。

 1889年(明治22年)3月広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、1894年(明治27年)6月から日清戦争に出征する。同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。1895年(明治28年)3月歩兵第21連隊長に就任し、同年7月戦役から帰還する。同8月再び第5師団副官に就き、11月には留守第4師団参謀長に移る。1896年(明治29年)10月の中部都督部参謀を経て1897年(明治30年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊長を拝命する。翌年茨木惟昭中将が師団長を務める第6師団参謀長に就任。

 1901年(明治34年)5月陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年(明治37年)6月から日露戦争に出征し、この時の戦功から個人感状を受ける。1905年(明治38年)3月から第3軍参謀長に移り、1906年(明治39年)1月帰還する。戦後第1師団司令部付・歩兵第1旅団長を経て1907年(明治40年)11月陸軍中将に任官され、第17師団長を親補される。1911年(明治44年)9月第4師団長、1912年(大正元年)12月第1師団長に移る。1915年(大正4年)2月軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年8月陸軍大将進級、同12月陸軍三長官の一角教育総監に就任する。1919年(大正8年)8月再び軍事参議官に就き、翌年6月後備役編入となる。

 現役を退いてからは1920年(大正9年)5月から1922年(大正11年)11月まで学習院長を務め、1924年(大正13年)8月には明治神宮宮司に就任する。1926年(大正15年)2月から帝国在郷軍人会会長も兼ねる。後には紘弘会会長も務めた。1931年(昭和6年)9月2日薨去。

 ・日清戦争出兵

 日清戦争では先遣隊として福島安正、上原勇作とともに朝鮮半島に渡海する。航海中、大時化のため大隊は船酔いで皆死んだような状態であった。第5師団の元同僚で友人である上原に「こんな風で戦は出来るか」と散々悪口を言われると、一戸は奮起して起き上がり、顔面蒼白のまま軍刀を杖代わりにして艦内を巡視して部下を激励した。しかし船室に戻ると一気に嘔吐したと上原は邂逅している。
 朝鮮公使から上陸するなと要請されて京城への入城も拒否されるも、上原らと共謀して海軍陸戦隊と入れ替わることで入城することに成功する。京城までの道のりは険しく先遣隊は極度に消耗していた。しかし、陸戦隊よりもはるかに規模が大きかったこともあり、袁世凱は京城から退くことになる。

 ・旅順での勇戦
 彼の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。
 続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。
 なお、一戸は上級司令部である第三軍司令部の作戦指導に対して当初は懐疑的だったそうである。しかし、奉天会戦後に第三軍参謀長となり、当時の作戦日誌を読み返した結果、当時の司令部の作戦指導は妥当であったと得心した、と戦後に述懐している。


 …と、こんな方のようであります。
 こぅしてWEB上で色々検索しておりまして、後で知りましたのですけど、この忠魂碑の後ろに吉備真備の墓とされている吉備公墳があるそうです。分かりませんから、勿論、見ておりませんけど、せっかく訪れましたのに、う〜ん、残念(^-^;
 まぁGONsanの場合は、アチコチ出掛けるのですけど、詳しい知識は持ち合わせておりませんから、こんな事はしょっちゅうなんではあります。今回もまた、せっかく訪れましたのに見ていない…毎度の事ですけど、悔やまれましたネ(^-^;

 八田神社への参道を更に奥へと進んで行きますと、突然現れる鳥居。その先にも鳥居が見えています。参道の隣は立派な竹林。タケノコの特産地だけはありますネ。
 なだらかな坂道を登っていくと、神社が見えてきました。最初の石段を上り、その先の数段の石段を上れば拝殿です。拝殿自体は割とこじんまりとしています。この神社は、もとは天神様といわれていたのが、大正時代に近隣の白石神社、八幡神社、御崎神社を合祀して、八田神社となったそう。当時の地名、八田村からその名が取られたようですね。

 ◆八田神社(ハッタジンジャ)

 --- 岡山県神社庁 ---

 ・由緒

 当社はもと天神様と言われ、江戸時代に現存した白石神社、八幡神社、御崎神社を大正元年9月に1村1社として合祀し、八田神社と改称した。
 ご祭神は白石神社の大己貴神、天穂日神、八幡神社の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、相殿に少彦名命、猿田彦命、豊磐間戸神、櫛磐間戸神を祀っている。
 当社の命名の由来は真備町史によると鎮座地の箭田村は当時備中下道郡の八田村から矢田村に変わり、更に箭田村となったことが記されている。現在社名を「はった」と呼称されている経緯については八神様を祀っている事と、八社を合祀したからとの説がある。
 神域は「まきび公園」の中に組み込まれ「箭田郷土自然保護地域」として赤松の保存林の中にあるが、松喰虫の被害が深刻になりつつある。
 昭和5年建立の本殿玉垣に刻まれている「誌」によると、村長土師隆治、助役別府要平の両氏が合祀その他に尽力し氏子に寄付を募り、社地を整理し拝殿の改築、幣殿、祭殿、社務所の増築、玉垣の新設を行った。

 御祭神:大己貴神、天穗日神、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、少彦名命、猿田彦命、豐磐間戸神、櫛磐間戸神
 御神徳:家内安全、 病気平癒、 開運
 主な祭典:4月24日・春祭、10月24日・秋季大祭、12月31日・大祓祭


 …と、こんな「八田神社」であります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八田神社拝殿の裏側に廻ってみますと、小さな祠が…そして、この祠の後方には竹林の中に道が続いておりまして、その先に眼を向けますと、なにやら「あずまや」らしき建物が…
 人気も無く、普段、あまり誰も訪れそうにも思えません周囲の環境ですけど、せっかくですから進んでみます事に(^-^)
 そこは、竹林に囲まれた空間で一角に、あずまやが存在。
 周りを見廻してみますと、竹林の向こうに墓地が…ふ〜ん、ここは、お墓参りの方の休憩所なのかも分かりませんねぇ〜
 あずまや近くには、「←八田神社」の標識も…
 夏ですと、少々涼しいですし、静かで大変落ち着きますし、一休みしますには最高ですかも(^_^)v ですけど、独りでポツンとおりますと寂しいですから、早々に、拝殿方向に退散となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

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