2020/04/17(金) 福山市神辺町上御領「古墳の丘」散策 <5/5>

 

 

 

 

 

 

 

 その内に小さなお社がポツンと存在です(^.-)☆
 そして、その周辺には「古墳」の案内標識が…
 周辺の古墳群の中で眼が止まりましたのが、この古墳。このまま進んで行きますと、こうした古墳が沢山存在しますのかも分かりませんけど、ここでまたUターン。引き返します事に…
 色んな古墳がありますのでしょうけど、今回の古墳巡りは、この辺でオシマイ、退散です(^-^)

 堂々川近くの「古墳の丘」への入口まで戻って来ますと、車を駐め「堂々川砂留」をパチリです。ついでに、「御領古墳群→」の案内標識も(^-^)
 ここから少し下って行きますと、一番砂留に駐車場がありますので、暫し休憩。堂々川には、砂留はいくつ存在しますのでしょうねぇ〜多分、ここが一番砂留なんだと思います。
 堂々川の案内板が設置されていますので、眼を通しますと…

 
◆堂々川

 --- 堂々川砂留の記録 ---

 堂々川は一級水系芦田川支川高屋川の小支で、流域は2?と小さいが江戸時代に渓流砂防工事が実施された代表的に渓流である。
 「福山に藩政時代の砂防工事がある」という言い伝えがあり、土地の人は砂留(すなどめ)と言っている。
 延宝元年(1673)堂々川では国分寺が流出し、63名の溺死者があった。このあと水野勝種、洪水などの災害を避けて国分寺を上流側へ再建したのが元禄7年(1694)であり、この頃砂留も合わせて施工したものと思われるが定かではない。
 福山藩は堂々川とその周辺に砂留工事を実施したほか、市村、山手村、津之郷村、本郷村など広い地域にわたって実施しており、天保年間(1830〜1844)の賃銀台帳や、歩掛などの資料から、砂留工事は藩における重要な施策の一つであった事がわかる。-- 広島県 --


 …と、こんな記載でありました。
 今まで、この一番砂留を横目に通り過ぎておりましたけど、初めて少し散策してみます事に(^-^)//"

 
◆堂々川砂留群

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 堂々川砂留群(どうどうがわすなどめぐん)は、広島県福山市神辺町にある、芦田川水系堂々川流域に建設された複数の砂防堰堤である。
 江戸時代中期から後期にかけて当地を治める備後福山藩により建設され、その後増改築および修復を重ね現在でも砂防ダムとして機能している。2006年国の登録有形文化財に登録。
 流域は県により整備されている。地元住民による任意団体「堂々川ホタル同好会」により周辺美化が行われている。

 ◇背景

 堂々川は、福山市中心部から北にある神辺町東中条東山を源流とし、南下した後、神辺中心部を流れる芦田川支川・高屋川に合流する、芦田川の二次支流である。延長約4km、流域面積約2km2、いわゆる天井川である。古くは百瀬川と言われ、砂留からとうとうと流れ落ちる水を見て菅茶山が書に残したことから堂々川の名が定着したという。

 堂々川の北側上流には大原池・淀ガ池といったため池が数ヶ所ある。堂々川下流域は「下御領」と呼ばれ、御領遺跡という縄文時代後期から中世にかけての集落遺跡が点在しており、つまり古くから人が住んでいた。古代には備後国の国分寺である備後国分寺が創建される。更にこの地は古代から交通の要所となり、古代山陽道の駅家安那駅が置かれ、中世には神辺城の城下町、近世以降は近世山陽道(西国街道)と石州銀山道/笠岡道が交わう宿場神辺宿として発展した。

 気候は瀬戸内海式気候で梅雨台風を除けば降水量は少なく温暖な気候が続く。芦田川は流域のほとんどを花崗岩で占められ、下流は風化した花崗岩が堆積し平野を形成した沖積平野となっている。この風化した花崗岩が堆積した砂状の土を西日本では特に「マサ土」と呼ばれる。この土は崩れやすく広島県における土砂災害の主因である。この地で起こった江戸期の土砂災害で亡くなった人たちの墓が現存している。

 ◇歴史

 ・発端

 延宝元年(1673年)5月14日、梅雨の大雨により堂々川最上層部にある大原池が決壊し土石流が発生、下流の農地・住居に加えて国分寺を全壊、当時の住民150人弱のうち63人の死者がでてしまった。
 福山藩主水野勝種は元禄7年(1675年)、国分寺を再建する。更に、藩政として農業に重点を置いていた勝種は、農民および田畑保護のため砂留普請を計画した。この勝種藩主時代の元禄10年(1697年)、あるいは翌年水野勝岑が藩主となった元禄11年(1698年)、堂々川に砂留普請を実施する計画が立てられていた。ただし、この計画は享保7年(1722年)まで進められなかった。

 元禄13年(1700年)元禄検地の記録『下御領御検地水帳』に「とうとう砂畑三ヶ所」という記載がある。砂畑とは収穫の見込めそうもない砂地の畑を意味するが、とうとう砂畑は検地帳に記載されるほどの石高評価された畑であったとして、砂留の背後地を利用していた可能性が高いと考えられている。なお、とうとう砂畑は現在の4番砂留上流側の狸ヶ原であるとされている。以上より、現段階では堂々川砂留普請の開始年をこの1700年としている。

 ・近代以降

 明治30年(1897年)砂防法施行に伴い山地そのものの防護を重視し、明治35年(1902年)からの積苗工・谷留石積などの山腹工事を施工していった。こうして、江戸時代の砂留と近代以降の砂防施策が複合的に機能することでこの地域の砂防対策が実現した。江戸期に造られた砂留も嵩上・増築を繰り返して現在でも機能している。
 なお、その存在は戦前まで全国的に知られておらず、砂防学会で紹介されたのは戦後のことになる。1990年代に広島県により砂留整備および親水護岸・堂々公園と周辺環境整備の計画が立てられ、あわせて発掘調査も行われた。

 2006年(平成18年)、国の登録有形文化財に登録される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 堂々川一番砂留内を少し歩いてみますと、八重桜が大変キレイでした(^.-)☆
 その他には特に何にもありませんけど、眼に入ります景観を数枚パチリ。ここを訪れます方は、あまりおられませんのでしょうけど、ノンビリと落ち着けます場所ではありました(^-^)
 それでは、堂々川ともお別れです。
 そぅそぅ、我が家に帰りましてWEB上で『狐岩』を調べてみましたら、ふ〜ん、こんな「狐岩」なんですねぇ〜
 左側の画像が「子狐岩」で、右側の画像が「大狐岩」のようであります(^-^)//"

 

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