2020/06/20(土) 広島県府中市「あじさい寺(神宮寺)」「南宮神社」散策 <4/6>

 

 

 

 石段を上がって行きますと、スグ正面に本殿が…

 
『本殿は正面五間、奥行三間の巨大な堂だ。ぱっと見には、八幡造か権現造の拝殿のように見えるが、この堂には背後に別の建物はなく、これ自体が本殿なのである。寺とも神社ともつかない建物だ。』…と、WEB上に綴っておられます方が…
 うん、うん、確かに背後に続く建物はありません。こぅぃぅ神社も珍しくはありますネ(^.-)☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本殿内の御神像は拝観不能ですけど、案内表示板には、こんな記載が…

 
◆南宮神社御神像

 平成24年、東京国立博物館学芸員による御神像調査が行われ、平安時代に作成されたものと判明、平成25年4月東京国立博物館において開催された国宝大神社展に出展され、丸体の御神像は全国的にも珍しく、大評判となりました。
 平成25年12月吉日 南宮神社 総代会


 …と、こんな記載がありました。
 WEB上で「南宮神社 御神像」と検索してみますと、こんな記載も…

 ◆木造神像・木造随神立像の概要

 ・名称(よみがな) -- 木造神像(11?)・木造随身立像(4?)(もくぞうしんぞう・もくぞうずいじんりゅうぞう)
 ・指定種別・種類 -- 国指定重要文化財・彫刻
 ・所在地 -- 広島県府中市栗柄町2980
 ・所有者 -- 宗教法人南宮神社
 ・公開状況 -- 非公開

 備後国府の南方に位置する南宮神社に伝来した11躯の神像と、二組の随身像である。
 神像は本殿内に御神体として安置されていたもので、像高や作風などから男神その1〜4と女神その1〜3、女神その4・5と童子形、男神その5に分けられる。そのうち男子その1〜4と女神その1〜3は同じ作者の手になるとみられるが、年齢や身分を区別しており神格の違いを造り分けているものとみられる。神像製作の有様を考察するうえで注目される。
 随身立像は、随身門に安置されていた左右一対の神像二組で、その1・2の製作年代は12世紀後半と考えられ、中国・瀬戸内地方では古例に属する。その3・4は、その体勢や衣文表現に写実味があり、製作年代は13世紀前半から半頃と考えられる。
 本神像群は平安末期(12世紀後半)から鎌倉前期(13世紀前半)にかけての製作とみられ、多様な特徴を具えるのに加えて、出来栄えも一定の水準以上で、詳細な製作事情は不詳ながら近在の備後国府の関与があったと考えられる。当地方の神像彫刻を考えるうえで重要な作例と評価される。


 本殿の床下には、こんな案内表示板も…

 ◆府中市指定有形文化財 南宮神社 本殿

 --- 昭和58年12月6日指定 ---

 祭神=孝霊無天皇 伊弉諾・伊弉冉神金山彦を主祭神として14柱を祀る。
 大同2年(807年)の創建で、大昔は宮内の吉備津神社と肩を並べる備後三大社一つであったとも伝える。
 現在の本殿は、寛文9年(1669年)の造営と考えられ、正面5間、側面3間で入母屋造りである。大規模な5間社は県内に例が少ない。特徴として向拜は千鳥破風・唐破風付。
 内部は身舎柱が立ち仏堂的な建築様式である。近くには神仏習合を物語る別当の神宮寺があり、また、境内に鐘楼が残っている神社は珍しく、往古は非常に隆昌を誇った神社である。

 
--- 府中市教育委員会・南宮神社 ---

 本殿右側には、再築のため比較的新しい四体の神社が…左から右に「塞之神」「市杵島神社」「出雲神社」「貴船神社」が存在です(^.-)☆

 ◆市杵島神社

 ・市杵嶋姫神を祀る。
 ・通称・宮島さん。


 安芸・厳島神社より勧請された神社です。もともとはここから200mほど離れた地に鎮座し明治時代初め頃までは、秋祭りの御旅所として賑わっていたそうです。が、神輿が担がれなくなると次第に忘れ去られて衰退…そんな経緯を経て、2000年に地元の有志によってこの地に移転再建された。

 ◆貴船神社

 ・水波能売神を祀る。

 もともとは、南宮神社・末社の筆頭である二宮として、栗柄・土生・僧殿・府川・高木・中須という6村の崇敬社だったそうです。当時は、平井の城平という地に祀られていた。しかし、1716年建立の本殿の破損が激しく、また同所に再建することが困難だったため、2004年にこの地に移転再建された。

 

 

 

 

 

 

 神社の境内に鐘楼がありますのは大変珍しいのですけど、明治新政府の神仏習合の際に、鐘楼のみ神社の境内に取り残されましたとか(^-^)
 案内表示板には、こんな記載が…

 
◆南宮神社の鐘楼

 鐘楼は神仏習合時代の名残りで、当社が大社であったことを示している。方一間切妻造り、箕甲本瓦葺、四方吹き放ちの形式の鐘楼は、全国的にもかなり古い遺構であり、四本の角柱を内転びに建ててあり、虹染形頭貫と台輪を設け、下部に二本の貫を入れて、軸部を固めている。
 初代の鐘楼は、福島政則が広島に持ち帰ろうとして尾道沖で沈没。二代目は安政二年(一八五五年)ペルリー来朝の際、外国船に対する海防の目的で、幕府の命により、鐘楼を大砲に改鋳する事になり徴発されました。由来、一五〇年程、梵鐘の無い鐘楼となっていましたが、神社に鐘楼があるのは、全国で二百余り社、うち広島県は当社を含み二社で珍しいとされている。三代目の梵鐘として京都の岩澤鋳造鰍ノて鋳造し、平成十六年七月に釣り下げることが出来たのである。


 …と、こんな記載がありました。
 南宮神社から退散しようとしましたら、こんな案内表示『孝霊天皇御陵伝説地 ⇒』が有りましたので、案内表示に従って進んでみます事に。
 でも、「孝霊天皇」とは、どんな方なのでしょうネ。

 ◆孝霊天皇

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 孝霊天皇(こうれいてんのう、正字体:孝靈天皇、孝安天皇51年-孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。

 ・略歴

 日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。
 父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との間には御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、崩御。


 WEB上で検索しますと、こんな方のようですけど、第三皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)が伝説上の桃太郎のモデルであると言われているようですネ。
 『孝霊天皇御陵伝説地』で検索しますと、WEB上にはこんな記載もありました。

 
◆神宮寺と市宮神社と孝霊天皇御陵伝説地

 南宮神社は備後ゆかりの孝霊天皇とその皇子吉備津彦命を主たる祭神とする大社で創建は、大同2年(807)です。現在の建物は寛文9年(669)の建立で市指定文化財になっています。神宮寺は市宮神社の別当寺で、寺が宮から分離した時、鐘っき堂だけは神社に残したので、今でも神社の境内に鐘楼があります。神宮寺には県の重要文化財である鎌倉時代の春日版600巻の「大般若経」と絹本暑色釈迦十六善神 があリ郷土館に展示してあります。寺のすぐ裏山に孝霊天皇御陵伝説地といわれる古墳かあります。
 --- 府中商工会議所 ---


 
◆南宮神社の別当寺

 --- 2008年07月01日 https://blog.goo.ne.jp/rit3918/e/aec671dc6a53ccce02c8cb840485a488 ---

 “あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
 本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼だけ神社の境内に取り残されたらしい。
 説明文を読むと、
 初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発され、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。
 流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難かったのだろうか?今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!

 孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
 古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い伝えられているそうだ。
 息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある吉備津神社の祭神として祀られている。父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしいのだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
 宗教とは不思議なものだ!

 ・(南宮神社)
 主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる備後三大社のひとつであった。神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残りで、広島県内には二社、全国でも二百余社しかなくて珍しい。

 ・(孝霊塚)
 孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の御所)として住んでいたが、死後そこに御陵が築かれた…と言う説や、息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御陵を築いた、と言う説がある。


 それでは、「孝霊天皇御陵伝説地」に向かってみます事に(^-^)//"

 

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