2019/09/07(土) 福山城「鐘櫓」特別公開に参加 <1/3>

 ■2019年09月12日21:33
 9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆


 9/7(土)には、『備陽史探訪の会』主催の「クイズで巡る福山城」に参加のGONsanでありました(^.-)☆
 当日は、A.M.9:00にJR福山駅北口の噴水広場に集合。この日の様子をまた、画像でご案内致します(^-^)//"

 

 

 

 

 定刻となりましたので、まずは、会長 田口義之sanがご挨拶。

 ◆備陽史探訪の会

 ・会概要

 備陽史探訪(びようしたんぼう)の会は、昭和55年9月、「備後を中心とした地域の歴史を研究し、愛郷の精神を涵養する」ことを目的に創立されました。
 「古代史部会」「中世史部会」「近世近代史部会」の3つの部会を柱として、古代・中世・近世・近代にわたる、地元備後の歴史について調査・研究・学習を重ねています。

 ・目的

 備後を中心とした地域の歴史を研究し、愛郷の精神を涵養する。
 「山間の渓流集まって滔々たる大川となり、一村一邑の小歴史集まって、浩瀚なる国史は構成せられる」これは大正14年1月15日に創刊された備後郷土史会機関誌「備後史談」発刊の辞である。日本史といい世界史といい、地域の歴史の集合体に過ぎない。本会は、昭和55年9月、こうした先人たちの遺志を継ぎ、備後を中心とした地域の歴史を明らかにすることを目的に結成された歴史研究の集いである。

 ・活動内容

 ★現地を訪れて歴史を学びます
 徒歩・バス・一泊旅行など、実際に現地を訪れて、担当者の案内の下、歴史の見聞を広めます。年に7回程度開催。その他に、現在、一番人気の毎月第一土曜日に開催する「ぶら探訪」。市中を午前中のみ散策し、地元の歴史を再発見するコースです。

 ★毎月学習会を開催し、知識を深めます
 「古代史部会」「中世史部会」「近世近代史部会」および会事務局がそれぞれ多様な学習会を開催しています。古墳や山城、福山の歴史など、文献資料などを基にテーマを決め、学習します。

 ★刊行物の発行により、情報の発信・意識啓発を行います
 年6回の会報『備陽史探訪』、年1回の研究誌『備陽史研究』の発行により、各会員の論文や研究レポートを発表すると共に、エッセイやクイズなど柔らかい表現で、地元の歴史を広く発信します。
 また、創立記念事業として、これまで『古墳探訪』『山城探訪』『ふるさと探訪』『続・山城探訪』『福山の遺跡100選』などの書籍を発刊してきました。

 ★講演会の開催で、地域文化に貢献します
 年4回の歴史講演会(内2回は「広島県県立歴史博物館と共催」)には、内外の著名な歴史家や研究者を招き、地元の歴史について語っていただきます。

 ★フィールドワークを行い、実際的な調査の手法を学びます
 不定期で、「古墳分布・測量調査」「山城測量調査」「発掘体験会」など開催。初心者でも測量器具を使用した調査に参加したり、実際の発掘現場にお邪魔して発掘体験ができます。調査報告は研究部会担当者がきちんとした報告書にまとめ、当会にて発表します。

 ★地域と共に歩んだ35年の軌跡
 毎年5月5日子どもの日に開催する 「親と子の歴史ウォーク(旧・親と子の古墳めぐり)」は今年で33年目となりました。地域の子どもたちに地元の歴史に親しんでもらい、地元への愛着を高めることを目的としています。「福山古墳ロード」整備事業もその一環です。

 ★「福山古墳ロード」整備事業
 平成18年度・19年度の「ふくやまの魅力づくり事業」に対して、備陽史探訪の会が提案し採用された事業です。近田駅を基点に神辺平野北部に位置する駅家町から加茂町にかけて数多く存在する古墳、その他史跡を「古代散策の小道」として設定。各ポイントの案内標識、看板、パンフレットなどを作成し、Aコース・Bコース・Cコースの整備事業を実施しました。現在も、史跡めぐりのモデルコースとして、多くの市民に利用されています。

 2019年現在、会員数は約320名です。会員は各自のペースや興味のある範囲で、気軽に参加できます。
 
備陽史探訪の会会長: 田口義之

 

 

 

 

 

 

 

 

 「鐘櫓」に向かいます前に、まずは福山城公園内をグルッと一周です。そして、その合間合間にクイズが出されますから、皆さん筆記用具持参で解答を記入しますけど、その問題がGONsanには結構難解(^-^;
 難しいのなんの(^-^)最初の問題が、伏見櫓の下でした。

 ★問1
 現在の月見櫓周辺には戦前まで貸座敷が建てられていました。この貸座敷の名前は何でしょう?
 @葦陽館 A清風楼--御湯殿を改築して造られた料亭 B晩翠舎--阿部家の資産管理組織 C仙酔館--下魚屋町にあた料亭
 正解:@

 ★問2
 伏見櫓が伏見城から移築された証拠となっている梁の陰刻は正確には何と書かれているのでしょう?
 @松の丸の東やく□ A松の丸の東ヤク□ B松ノ丸ノ東やく□ C松ノ丸ノ東ヤク□
 正解:B


 続いて、鐘櫓下・阿部正弘公像の前まで移動です。そして、第3問・4問が…

 ★問3
 戦前の阿部正弘像は現在とは異なる場所に建てられていました。それは、何処でしょう?
 @天守前 A御湯殿前 B鏡櫓前 C黄金水井戸前
 正解:A

 ★問4
 二の丸北西にあった門の名称は次のうちどれでしょう?
 @棗門--本丸北西にあった門 A水の手門 B蔵口門--二の丸北側にあった門 C四ツ足門--鉄門脇にあった門
 正解:A


 …と、こんな感じで仲々難解な問題であります。正解は「鐘櫓」の見学を終えた最後に発表との事でありました(^.-)☆

 ◆福山城(備後国)

 福山城(ふくやまじょう)は、広島県福山市丸之内1丁目にあった日本の城で、城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。2018年7月30日には福山城跡の天守閣部分に対し、広島県内では初の事例となる景観重要建造物の指定がされた。

 ・概要

 福山城は1615年(慶長20年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工した城である。大規模な新規築城による近世城郭では最後の例となった。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。形式は輪郭式の平山城だが、2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られる。五重の天守と7基の三重櫓を有していた。

 1873年(明治6年)の廃城令によって、大蔵省の所管となり、建物の払い下げ、取り壊しが実施されていたが、翌1874年(明治7年)に所在自治体の福山町などの請願によって、本丸の天守(付櫓を含む)・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿・鐘櫓の5棟の建築物が残されることとなった。その内鐘櫓を除く4棟について、国宝保存法の国宝に指定された。天守以外のこれらの現存建築は、福山城の築城時に伏見城から移築されたものであったが、昭和20年(1945年)の福山大空襲によって、伏見櫓、筋鉄御門(ともに、国の重要文化財)を残して焼失している。
 一方、本丸以外の城郭遺構については、昭和初期までに城北側にある堀をかねた吉津川以外のすべての堀が埋められ、三の丸は大半が市街地と化すなど遺構の破壊が進んだ。石垣も概ね本丸と二の丸の大部分と三の丸のごく一部に残る。

 現在の天守(付櫓含む)、月見櫓、御湯殿は1966(昭和41年)に鉄筋コンクリート構造で復興されたのものである。再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され、天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできる。三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き、新幹線や福塩線のホームからは、天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。

 ・築城以前の備後南部

 福山城築城まで福山と呼ばれる街はなかった。福山城周辺は「杉原保」と呼ばれ古代から荘園として栄えていた。安土桃山時代には「野上村」と改称され、福山城の建つ丘陵は北側から連なる山並みの先端部で「常興寺」と呼ばれる寺が建てられていた。常興寺は築城に際して城下北部に隣接する吉津村に移され、野上村は城下南西の新開地に移された(現在の市内野上町周辺)。南側は海が間近に迫る芦田川のデルタ地帯で大部分は湿地帯や田畑となっていたようである。この時の備後南部の中心地は福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺で、ここに備後国の政庁である「神辺城」があった。また、海においては福山城から南約12キロメートルにある沼隈半島南端の鞆の浦が海上交通の要衝となっていた。

 ・福山藩の成立と築城

 福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)。元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の2国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、徳川家康の従兄弟である水野勝成が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。

 城地は瀬戸内海との往来や西国街道との距離が考慮され深津郡野上村の常興寺山(常興寺)一帯が選定された。なお、江戸時代後期の地誌によると現在の福山城から北西約12キロメートルにある桜山(市内新市町)や南東約7キロメートルにある箕島(市内箕島町)も城地の候補として検討されたとされ、書籍等にはこの記述を採用するものも多くあるが、これ以前の資料にはそうした記述は全く確認できず、また、地理的にも桜山はあまりに内陸であり箕島は沼隈半島に隣接する完全な島(現在は埋め立てにより半島となっている)であるなど、信憑性に疑問が指摘されている。築城に際し城地に含まれた常興寺は近郊の吉津村(現在の市内吉津町)に移転され、北側は東西方向に切り開き総構えの堀を兼ねた川(吉津川)が通された。干潟であった南側は干拓されて城下町が開かれ、この町は福山と名づけられた。

 築城は低湿地な場所での工事も多くあったため、元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど、困難を極めたといわれる。城の用材には福山城の築城に伴い廃城となった神辺城はもとより、江戸幕府より下賜された伏見城の遺材も多く用いられた。この時、伏見城から移築された建造物としては伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などがある。また、幕府から石垣奉行2名が派遣されている(俗説では小幡景憲の名も挙げられているが、創作だと思われる)。そして、築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に福山城は完成する。2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓7基、二重櫓16基、総延長291間(約570メートル)の多聞櫓と、10万石の大名の城としてこの規模は特筆に値する。さらに築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けており、福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことが伺える。なお、築城時の縄張りは若干の改修はあったものの基本的に廃城まで維持されている。

 

 

 

 

 

 

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