2019年 水野勝成公「備後入封400年祭」 <1/4>

 ■2019年10月04日13:24
 お彼岸前の9/21(土)は、嫁さんと墓参りでありました(^.-)☆


 9/21(土)は、お彼岸も近付き、A.M.11:00過ぎから嫁さんと墓参りとなりました。
 毎月月初に草取りで出掛けておりますから、墓地は草も生えていないものと思いますけど、花のお供えをしなくては…
 墓地に到着しますと、予想通りキレイなもの。多少、細かい草は散見です。

 花を御供え後、読経です。が、曇り空で直射日光もなく涼しそうに感じましたけど、やはりまだまだ蒸し暑い。ジトッとしました暑さでしたネ(^-^;

 読経を終えますと、いつものように眼下の我が町を眺望です。こぅして見下ろす度に農地の減少が眼についてしまいます。
 我が家も周辺のお宅に囲まれてしまいました。畑が消えて行きますのは、やっぱり寂しいですねぇ(^-^)//"

 

 

 ■2019年10月04日15:03
 9/21(土)〜9/23(月)「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」


 台風17号の接近で開催が危ぶまれましたけど、墓参り後の午後は「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」に出掛ける事に致しました。
 P.M.1:35頃に我が家を出まして福山城公園に向かいますと、既に天主前の広場では「備後圏域PRステージ」が始まっておりました(^.-)☆
 県内各地のイベントが台風接近で中止となります中、どうやら「備後入封400年祭」の初日は予定通り開催のようですネ(^_^)v

 暫しステージに眼を向けておりましたGONsanですけど、ここを離れ福山城公園内を少し散策です。
 水野勝成公の像付近のテントでは、年末の灯り祭りで使用します竹の穴あけ教室が開催中でありました。
 電気ドリルを手にチビッコ達が、楽しそうに懸命に穴あけ作業を(^-^)

 ふ〜ん、竹に貼られた原図にそって大小様々な穴をあけますようですネ。GONsanの職場の倉庫の一角で、毎年、12月に入りますと、商工会議所関係者の皆様が、こんな作業をしておられます。
 オジャマしてもイケませんから、今までスグ近くで拝見した事がありませんでしたが、うん、うん、こぅして竹を加工されますようですネ\(^o^)/
 先日、倉庫内で見掛けましたけど、この日作られましたモノなのでしょうか…一部が保管されてありました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水野勝成公像が存在の広場から北側に眼を向けますと、竹藪の中に「福寿会館」の建物が(^-^)
 そぅですネ、久しく福寿会館を訪れていませんし時間的にも余裕が有りますから、久し振りに福寿会館を散策してみましょうか(^.-)☆
 先日・9/7(土)には、『備陽史探訪の会』主催の「クイズで巡る福山城」に参加しましたけど、その際にクイズの問いに「福寿会館」がありました。

 
★問5
 福寿会館は誰の邸宅として建てられたでしょうか?
 @森下博--森下仁丹の創設者で広告王と呼ばれる A林半助--鞆の実業家、鞆軽便鉄道初代社長 B武田五一--関西建築界の父と呼ばれ、問3の台座は氏の作品 C安部和助--鰹節王と呼ばれた削り節の考案者
 正解:C


 …と、こんな問題でありました。

 
◆福寿会館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福寿会館(ふくじゅかいかん)は、広島県福山市丸之内1丁目の福山城公園内にある建物で昭和初期に個人の別荘として建てられ福山市の市史編纂室及び貸会議室や貸茶室として使われている。主に本館、洋館の2つの施設で構成され、両館含めていくつかの建物が国の登録有形文化財に登録されている。

 ・概要

 福寿会館は福山城の旧二の丸下段北側に位置し藩政時代には幕府から預かった兵糧米を収蔵する城米蔵があった場所に建てられている。明治時代にはこの周囲は民間に払い下がられ梨園となっていたが、1930年代、この東半分の場所に海産物商で削り節の考案者といわれ「鰹節王」と呼ばれた安部和助(あんべわすけ)により今日の福寿会館となる大規模な別荘が建設された。
 敷地面積は約7,400平方メートルあり平屋で和式の本館とこれに付随する木造2階建ての洋館(床面積約210平方メートル)、池泉回遊式庭園などで構成されている。また、東側には福山城二の丸の石垣を崩して新たに専用の道路が造られた。なお、この道路により二の丸東側と地続きであった敷地は分断されることになった。

 福山大空襲では隣接する福山城天守が焼失する中で罹災を免れ、その後、所有権は個人に移ったが、福山通運創業者渋谷昇が買い取り、1953年(昭和28年)に福山市に寄贈された。寄贈後は結婚式場として市民に開放され戦災の傷跡の残る福山市街にあって貴重な施設となっていたが、戦後の復興と共に役割を終え1973年(昭和48年)から洋館は市の迎賓館として、本館は貸会議室や貸茶室として用いられた。1992年(平成4年)には新市庁舎完成により洋館の迎賓施設は市庁舎へと移され、市史編纂室が設置された。
 その後、洋館は昭和初期の洋式建築として評価され1997年(平成9年)に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。2012年には本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵も同じく登録された。2008年(平成20年)に洋館の改修工事が行われ、市史編纂室を移転させて空調設備やトイレを整備するなどし、2009年4月1日に一般開放された。利用者は周囲に福山城御湯殿や月見櫓といった類似の施設が多くあることなどから年間5,000人程度と低迷していたが、市は洋館の開放により新たな観光スポットとして利用者の拡大を期待している。

 ・施設 -- ・本館 ・大広間(21畳)・広間(14畳)・西客間(10畳)・北客間(6畳)・西茶室・南茶室・洋館
 ・福寿会館洋館 -- 1935年(昭和10年)-1937年(昭和12年)頃に建てられた建築面積138平方メートル木造一部2階建ての洋風建築。屋根は鋭角の切妻で瓦葺き、外壁はモルタルで柱や窓にはイタリア・ルネサンス風の装飾が施されている。

 ◆安部 和助(アンベ ワスケ) -- 大正・昭和期の実業家

 生年明治19(1886)年10月29日
 没年昭和35(1960)年11月25日
 出身地広島県福山
 経歴家業の海産物商に従事。明治の末頃に鰯を利用した削り節の製造・販売に乗り出す。製造工程の機械化を進め、販路を中国、台湾などに拡大した。


 …と、こんな「福寿会館」「安部和助」なのであります(^.-)☆
 庭園内を一通り廻りまして退散しようとしましたら、外国人観光客の皆様8名ばかりの方々が、入れ替わりに来訪です。
 少し意外で「何で!?」の想いが生じましたGONsanです。ふ〜ん、知りませんのはGONsanくらいで、この「福寿会館」は福山市の観光名所の一ヶ所なのかも…まぁ、イィのですけど(^-^)

 それでは、また、天守前広場に戻りましょうか(^-^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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