2018年 某協会福山支部の皆様と「京都方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <6/11>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 P.M.6:30頃から始まりました三嶋亭での夕食も、約2時間でお開きです。さすがに美味しく戴けまして、皆さん一様に満足顔。
 三嶋亭を出ますと宿泊場所であります「ホテルグレイスリー京都三条」に戻りますけど、GONsanは周辺を少し散策となりました(^.-)☆

 寺町通を少し南下しますと「新京極六角公園」と言う小さな公園にベンチが…

 ◆新京極六角公園、Wi-Fiスポット
 三条通から寺町通りを市場へ歩いていた途中、噴水やベンチが置かれた広場があった。1989年にできた新京極六角公園。Wi-Fiスポットも完成、街歩きで疲れたときに一息つくのには好都合だ。(WEB上の記載より)


 ここで缶コーヒーでもすすろうかと自販機に向かいますと、足元に違和感を抱き路面に眼を移しますと、なんと一羽のスズメが(^_^)v
 何か食べ物をねだってGONsanの足元をウロウロ(^-^)
 実に慣れています感じで、人見知りなんぞ微塵もありません。GONsanの動きます方に付いて来ますから、本当にビックリ。何か食べ物でもあれば与える事が出来ますのですけど、あいにく何にもありませんから…
 ですが、うまいこと食べ物を見つけて何か食べています。この辺りの事情を熟知していますのかも分かりませんねぇ〜

 とにかくビックリです。こんな街中に野生のスズメがシッカリと暮らしていますのですから(^-^)
 この様子を数枚画像に納めましたけど…ですが、こんな場所で拾い食いの日々を過ごしておりますと、決して長生きは出来ないのでしょうけどネ…

 ホテルに戻りますと、まずは喫煙コーナーで一服。そして部屋に戻り入浴後、いつもより早めの就寝となりました。
 そして、翌朝は、A.M.5:00に起床。洗顔後、5:30〜早朝散策開始となりました。
 まず向かいましたのが本能寺。

 ◆本能寺

 本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。

 ・歴史

 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。
 寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。
 日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。

 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

 ・日承上人・本能寺の変

 天文16年から17年(1537年-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)、四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。
 日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。

 本能寺は、早くから種子島に布教していた。このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
 織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲され、襲われるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。

 ・現在の場所への移転とその後

 天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。

 天明8年(1788年)の天明の大火で焼失するが、天保11年(1840年)日恩上人によって再建する。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。

 現在の本堂は1928年(昭和3年)に建てられた。


 …と、こんな本能寺。今回の早朝散策は、この本能寺からとなりました(^-^)//"

 

 

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