2017年 某協会福山支部の皆様と「和歌山方面研修旅行」行きでした(^.-)☆ <4/14>

 

 ◆紀三井寺

 ・御詠歌

 ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん

 ・伽藍

 JR紀三井寺駅から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年建立の新仏殿、左手には本堂、鐘楼、大師堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔、開山堂がある。

 ・本堂

 江戸時代、宝暦9年(1759年)の建立。観音堂とも称す。入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設ける。虹梁形の貫を用い、頭貫に木鼻を付し、台輪を乗せ、組物は三手先詰組とするなど、細部には禅宗様が用いられている。秘仏本尊の十一面観音像、千手観音像などは、現在は裏手の大光明殿に移されている。高欄の擬宝珠金具は寛政元年(1789年)奉納のもの。西国三十三所札所として多くの巡礼者を迎え入れられるよう、外陣を開放とする。和歌山県指定有形文化財(建造物、1974年<昭和49年>4月9日指定)。

 ・大光明殿

 本堂の裏手に棟続きに建つ耐震耐火の収蔵庫(原則非公開)で、昭和58年(1983年)に完成した。殿内中央の厨子内には向かって左に十一面観音像、右に千手観音像が安置される。紀三井寺の本尊とされるのは十一面観音像だが、千手観音像も本尊と同様に崇敬されている。両像とも50年に一度開扉の秘仏である。厨子外の向かって右には梵天像と本尊とは別の十一面観音像、左には帝釈天像と毘沙門天像を安置する(毘沙門天像を除く5体は重要文化財)。
 十一面観音立像-像高161.5センチメートル。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。
 千手観音立像-像高183.0センチメートル。平安時代、10-11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・唐招提寺像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。
 梵天・帝釈天立像-像高163.9及び161.2センチメートル。平安時代、10-11世紀の作。本尊の両脇に安置され、「梵天・帝釈天」と称されているが、条帛(じょうはく)、天衣、裳を着けた像容は菩薩像のそれであり、本来観音菩薩像として造られた可能性が高い。梵天像は彫法が素朴で、彩色はほとんど剥落し、頭上には円筒形の冠があるのに対し、帝釈天像は衣文の彫技が細かく、彩色がよく残るなど、両像の作風には明らかな相違があり、元来一具ではなかったとみられる。
 十一面観音立像-像高156.7センチメートル。平安時代、10-11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。

 ・仏殿

 鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。

 ・その他の建物

 護国院楼門(重要文化財)-参道正面、境内への入口に建つ楼門。室町時代中期の建立、三間一層入母屋造。寺伝では永正6年(1509年)に建立、永禄2年(1559年)に加修。下階中央間は開放で扉がなく、正面両脇間に仁王像を安置している。
 護国院鐘楼(重要文化財)-安土桃山時代の建築、重層袴腰入母屋造。寺伝では天正16年(1588年)安倍太郎の再建という。天明元年(1781年)に加修、1937年(昭和12年)に大修理を行った。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後に移されたが現存しない。
 護国院多宝塔(重要文化財)-室町時代の建築、三間二層多宝塔造。文安6年(1449年)の勧進縁起が伝来することから同時期の建立と推定される。四天柱内の内陣に五智如来坐像を安置する。各種の絵様、彫刻、須弥壇に室町時代中期の様式を示す。
 六角堂 1棟-江戸時代・寛延年間(1750年頃)、初代・二代目雑賀弥左ェ門建立。西国三十三カ所御本尊をまつる。

 ・三井水

 紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水である。紀三井寺の三井水(さんせいすい)として名水百選に選定されている(1985年<昭和60年>)。清浄水は参道石段の途中右側にある小滝である。楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである。

 今から231段の急な石段を上ろうとしまして、まず眼に入りましたのが『結縁坂のいわれ』の表示板。

 ◆「結縁坂」の由来

 紀三井寺の楼門から上に、231段の急な石段があります。
 参詣者泣かせの急坂ですが、この坂は、結縁坂(けちえんざか)と呼ばれ、次のような「いわれ」が伝えられています。

 「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。
 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。
 困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。
 これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。
 後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。
 紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」と。

 商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。
 あなたも、この人と結ばれたいという恋人が出来たら、この坂を登ると良いかもしれませんよ。そして共に、観音様に心からなる願いをお掛け下さい。

 
…と、WEB上には、こんな記載がありました(^.-)☆

 そのほかにも『紀三井寺の応同樹』の表示が…


 ◆紀三井寺の応同樹

 護国院(紀三井寺)は、宝亀元年(770)、為光上人によって開かれた寺院です。寺伝によると、応同樹は為光上人が竜宮で竜王から贈られて持ち帰った霊木とされています。植物分類では、クスノキ科タブノキ属の常緑高木で、照葉樹林の代表的な樹種のひとつです。表坂中腹滝ノ坊の上にある応同樹は、和歌の浦を見渡す場所にあり、樹齢は約150年とされています。昭和44年(1969)、天然記念物として指定を受けたときには、幹周り2m、樹高15mの立派な樹観でした。現在では虫損により高さ1.5mで伐採されていますが、主幹や根元からは新しい枝が育っています。

 …と、こぅして綴りますのもイィのですけど、億劫ですから以下省略です(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 急な石段を上りながら周辺をキョロキョロ。その都度、眼に入ります景観を画像に納めながら、そして皆さんに遅れをとってもイケない…と、それなりに急いで歩いて来ましたから、231段の石段も結構キツいものではありました(^.-)☆
 石段を上りきった正面に存在しますのが六角堂。
 とにかく、上って来ましたところで、チョッと一息となりました(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 それでは、まず仏殿に参詣です(^.-)☆

 ◆仏殿

 鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。
 2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。
 耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。


 …との事ですけど、高さ12メートルですから、さすがに見上げるようでしたネ(^-^)//"

 

 

 

 

 

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