2015年 某協会福山支部の皆様と「山陰研修旅行」行きでした(^.-)☆ <8/13>

 

 

 

 

 

 

 

 2日目はあいにく小雨の天候でありましたが、予定通り長生閣ホテルをA.M.8:30に松江城に向け出発となりました(^.-)☆
 松江城駐車場に到着しますと、まず迎えてくれましたのが「堀尾吉晴」公の像でありました(^.-)☆

 ◆堀尾吉晴

 堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。豊臣政権三中老の1人。

 ・織田信長の時代

 天文13年(1544年)、尾張丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれた。父は尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。

 当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559年)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため父と共に浪人となった。その後、尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に付属された。

 以降は秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたといわれている。天正元年(1573年)には、近江長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨姫路において1,500石、後に丹波黒江において3,500石に加増された。

 ・豊臣家の時代

 天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務める。山崎の戦いでは秀吉の命令で堀秀政や中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波氷上郡内(黒井城)で6,284石となる。
 天正11年(1583年)、若狭高浜において1万7,000石となり大名に列する。天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)、佐々成政征伐に従軍。田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命される。また所領も若狭佐垣(佐柿、現在の福井県三方郡美浜町)2万石に移封され、わずか60日後の閏8月には近江佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられて移封された。ただしこのように頻繁に所領を移されているため、若狭佐垣では実際の所務(徴税権)などは無かったとされている(『堀尾家記録』)。また近江の要衝に所領を移されているため、吉晴は秀吉の信任を得ていたようである。

 天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、正五位下帯刀先生に叙任された。
 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。小田原開城後は、これらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江浜松城主12万石に封じられ、豊臣姓も許された。この頃、秀次から独立した立場になったためか、後の秀次事件には連座していない。この後、九戸政実の乱にも従軍して功があったという。
 秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に三中老に任命され、豊臣政権に参与した。しかしながら、三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある。

 ・関ヶ原

 慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、石田三成や前田利家ら反家康派との調整・周旋を務めた。慶長4年(1599年)2月5日付で家康の重臣・井伊直政が吉晴に対して周旋に対する感謝状を贈っている。
 そして老齢を理由に慶長4年(1599年)10月1日、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。これは家康から知行を与えられた最初の例である。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。家康が会津征伐に赴く際に浜松において忠氏と共に歓待し、家康に従軍を求めた。しかし従軍は忠氏のみでよいとして、吉晴には越前への帰国を命じられた。

 その帰国途上の7月、三河刈谷城主・水野忠重、美濃加賀野井城主・加賀井重望らと三河池鯉鮒(現在の愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した。吉晴も17か所の槍傷を負ったが、重望を討った。なお、吉晴の菩提寺である京都市春光院に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫りこまれており、この際の傷ではないかと推測されている。また、事件の際は殺害現場を見た忠重の家臣に殺害の主犯と勘違いされたという逸話も伝わる。
 このため9月の本戦には参加できずに越前に帰国した。代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。

 ・江戸時代

 慶長9年(1604年)、豊臣姓を下賜されている。
 同年、忠氏が早世する。家督は孫の忠晴が継ぐが、幼年のためその後見役を務めた。また同年、隣国伯耆国米子の中村家における御家騒動(横田騒動、または米子騒動)においては、中村一忠の応援要請を受け、応援出兵して騒動を鎮圧している。
 慶長16年(1611年)、松江城を建造し本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。


 …と、こんな「堀尾吉晴」公。
 この方もまた戦国の世の凄い武将のお一人でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆松江城

 松江城(まつえじょう)は、島根県松江市殿町にある日本の城跡。別名・千鳥城。現存天守は国宝に、城跡は国の史跡に指定されている。この他に日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれている。

 ◇概要

 平山城で江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となったが、明治時代初頭に廃城令によって存城処分(陸軍省所管)となったため、天守以外の建物はすべて払い下げられ撤去された。城跡は現在、松江城山公園として利用され、また、江戸時代初期建造の天守を有する城跡であり、天守は山陰地方の現存例としては唯一である。天守からは宍道湖を眺望できる。天守内部には松江市街のミニチュア模型が展示されている。
 現在、指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

 ◇歴史・沿革

 ・前史

 鎌倉時代から戦国時代かけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。

 ・築城

 1600年(慶長 5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とした。
 1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
 1611年(慶長16年) 冬、松江城落成。(堀尾吉晴はこの年6月に完成目前で急死している。)
 1633年(寛永10年) 堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易となった。
 1634年(寛永11年) 京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
 1637年(寛永14年) 忠高が嗣子なく没し京極氏は一時廃絶(のちに他国で再興される)。
 1638年(寛永15年) 信濃国松本藩より松平直政が18万6千石で入封。以後、明治維新まで続く。

 ◇人柱伝説

 天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。
 石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった。
 天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである。これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。

 ◇国宝指定に向けて

 昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。松江市長(2012年10月現在)の松浦正敬が松江城の国宝指定も公約に掲げて2期目に当選した2009年(平成21年)以降は、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」を立ち上げるなど、国宝指定に向けての調査・運動が活発化していた。懸賞金を掛けて史料を探していたが平成24年に松江神社で国宝指定に重要な、築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかった。
 2015年(平成27年)5月15日、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申。同年7月8日の官報告示をもって国宝に指定された。

 

 

 

 

 

 

 松江城天守に入りますと、まずは最上階にと向かいましたGONsan。
 とりあえず上に上って降りながらユックリと内部を拝見します方が楽ですから(^.-)☆

 あいにく今にも小雨が降り始めそうな空模様で、天守からの眺望は今一でしたけど、宍道湖方向に眼を向けますとそれなりにキレイ(^_^)v
 宍道湖の中には、ポツンと細長い島が存在です。「嫁ヶ島」と言う島のようですネ。

 ◆嫁ヶ島

 嫁ヶ島(よめがしま)は、島根県松江市嫁島町の西約200mに位置する宍道湖唯一の島である。全長110メートル、幅約30メートル、周囲240メートル。約1200万年前に噴出した玄武岩の溶岩から成る。無人島。

 ・概要

 島には弁財天を祀る竹生島神社の祠(1611年に堀尾忠晴が祭った)と鳥居(1907年に琵琶湖疏水設計者の田辺朔朗が寄進)があり、周囲には松が植わっている。1935年に松江出身の若槻礼次郎が数本の松しかなかった島に20本の松の苗を植樹した。消波ブロックとして、如泥石(松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる円柱形の来待石)で島の周囲が固められている。

 島の名は伝説(嫁ヶ島伝説)によるが、この伝説には姑にいじめられた嫁が湖で水死した際に水神が浮き上がらせたとする伝説などいくつかの悲しい伝説が残されている。
 『出雲国風土記』意宇郡条においては「蚊島」と表記されている。
 当時は周囲が約110mと今の半分ほどの大きさで、島の中央には径7〜8cmばかりの木が一本生え、礒には貝や海草が見られたとある。
 湖岸には島に向かって2体の地蔵(袖師地蔵と石灰地蔵)が立っている。

 夕陽スポットとして知られており、1951年に宍道湖十景に、2003年に宍道湖水辺八景に選定されている。「日本夕日100選」にも登録されている。
 松江水郷祭湖上花火大会の際には島近くの台船から花火の打ち上げが行われる。
 年に数回、湖岸から張られたロープを伝って島まで渡るイベント「嫁ヶ島に歩いて渡ろう」が開かれる。湖岸から島まで220m程度しか離れていないうえ水深も最大130-140cmと浅く、子供も多く参加する。島に続く東側の湖底には、周囲より少し高くなった水中参道があるが、江戸時代初期までは対岸の袖師に連続した玄武岩の岬があり、松江城築造に伴う石材として掘削され岬がなくなったと伝えられていることから、玄武岩の掘削跡による浅瀬である可能性もある。

 ・風光美

 松江城創建者の堀尾吉晴が天守閣からの眺めに感動して嫁ヶ島を「湖中の一勝地なり」と評したのをはじめ、水郷松江のシンボルとして、文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきた。
 松江市都市計画部都市景観課職員によると、松江城から嫁ヶ島を眺める線上には高い建物を建ててはならないという不文律があるという。
 大正初期に如泥石が防波堤として置かれた際には、恒藤恭が新聞紙上で「この湖の礼儀にかなわぬ無作法漢」、「4、5 本の松が小さな祠を護り、白い砂浜のはてに青葦が波に揺れる様こそ趣があった」、「やさしい島の面影が滅びてしまった」と批判。
 芥川龍之介も、「松江印象記」のなかで、宍道湖の美しい景観を壊すものとして如泥石の防波堤を批判した。

 丸谷才一は嫁ヶ島越しに見る宍道湖の落日美を「純粋に審美的な風景美」と評し、山崎正和は国内でも稀な「眺めるためにだけある島」であることを指摘し、吉田兼好の言葉を借りて「田舎の人はそばに行って手で触ったり足で踏んだりしないと納得しないが、その意味において都会的センスのある島」と述べ、両者ともに松江が洗練された趣味の町である証しとして、人があまり近づかなかった当時の嫁ヶ島の在り方を高く評価した。
 宍道湖観光遊覧船「はくちょう」の遊覧コースとなっている。


 …と、こんな「嫁ヶ島」のようですネ(^.-)☆

 とにかく、天守から眺望の嫁ヶ島…仲々印象的ではありますねぇ(^-^)//"

 

 

 

 

 

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