2014年 中村講中の皆様と石川〜新潟県方面へのお寺詣り(^.-)☆ <6/10>

 

 

 

  

 妙成寺でのお詣りを終えますと、後は今夜の宿であります「あわら温泉・あわらグランドホテル」にと向かうのみ。
 金沢西ICからまた北陸自動車道に戻り加賀ICまで走行です。
 
 予定通り芦原温泉に到着しますと、まずは入浴。
 そして、カラオケのお上手な方々にはお待ちかねの宴会にと突入(^.-)☆
 GONsanなんぞは唄える歌と言いましたら数曲程度ですから、結構カラオケは苦痛の部類に入りますかも(^.-)☆
 
 ですから、もっぱら飲食に集中です。
 そして、その合間にカメラを持って撮りまくりです。が、こうしてWEB上に公開致しますと叱られそうですから、画像は控えめに小さくアップとなりました。
 まぁいつものことで、今まで叱られました事は無いのですけど、中には快く思っておられません方もいらっしゃるかも(^.-)☆
 
 私も含みまして、皆さん、後20年お元気におられますかどぅか…
 人生の一時期、こんな時もあったのだ…と、懐かしく眼にして頂けましたら宜しいのですが…
 GONsanは、この方々とお寺詣りをご一緒出来まして、いつも嬉しく思っているのであります(^-^)
 
 だ・か・ら、この程度の写真公開は笑って許して頂けましたら(^-^)//"
 
 ◆あわらグランドホテル
 
 温泉宿は日本の文化、そして今も昔も人と人がふれあう社交場でございます。
 当館では「愛と笑顔と温泉」をコンセプトに、お気軽に何度でもおこしいただけますよう、スタッフ一同、心よりお持ち申し上げます。
 
 --- 女将 関山真民 ---
 
 当ホテルのホームページには、こんな記載がありました(^_^)v

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

 

 

 皆さんと宴会を楽しみました翌朝は、いつものようにA.M.5:00に起床のGONsan。旅に出ますと、翌朝は恒例の早朝散策なんです(^.-)☆
 アラームのA.M.5:00到来の合図と共に飛び起きまして、急いで洗顔となりました(^-^)
 
 窓から外の様子を伺いますと、ドンヨリと曇って今にも降雨が始まりそうな空模様。
 と、言うか、既に一雨降って上がったばかりの感じがしない事も…
 とにかく、今時点では降雨はありません。
 
 フロントで「あわら温泉MAP」を貰いまして、とにかくホテルの外へといざ出発(^_^)v
 ですが、どちらに向かったものか…
 とりあえず、えちぜん鉄道『あわら湯のまち駅』方向に歩行となりました(^.-)☆
 
 それにしましても、依然としてまた降雨が始まりそうな空模様。
 地面に眼を移しますと、やはり出発前に激しい降雨があったような気配が(^-^;
 
 この調子では、遠くに出かけられそうにもありませんから駅周辺の眼に入ります景観を数枚パチリ。
 ご覧の通り何にもありません景観ですけど…
 とは言いましても、こんな何でもありません景観がGONsanは結構好きなのであります(^-^)//"

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅前周辺を見廻していますと、「藤野厳九郎記念館」の建物が…そして、その前には「藤野厳九郎と魯迅の像」が(^.-)☆
 ですが、「藤野厳九郎」とは何者なのでしょう?
 
 で、早速、WEB上で検索してみますと、
 
 ◆藤野厳九郎記念館
 
 藤野厳九郎記念館は、昭和58年芦原町と中国の浙江省紹興市との間で締結された友好都市を記念して、藤野家遺族の方から三国町宿にあった旧居が寄贈されたものです。そして、芦原温泉100周年記念祭の昭和59年7月に「藤野厳九郎記念館」として(現在の地に)移築されました。仙台医学専門学校(現在東北大学医学部)の解剖学教授藤野先生と中国からの留学生周樹人(後の魯迅)との国境を越えた師弟関係ゆかりの資料が展示されています。
 
 ◆藤野厳九郎
 
 藤野 厳九郎(ふじの げんくろう、1874年7月1日-1945年8月11日)は、日本の医師・教育者。日本留学時代の魯迅の恩師として知られる。
 
 ・生涯
 
 敦賀県坂井郡村(現福井県あわら市)で、代々続く医者の家に生まれた。父も適塾に学んだ医師であり、彼が橋本左内と交わした書簡が今に伝わる。学校に通う年令になると小学校に入学したが、当時は教育制度がまだ未整備だったこともあり、併せて塾にも通った。
 
 愛知医学校(名古屋大学医学部の前身)卒業後、同学校の助手となり、のち助教授に昇格した。郷里に程近い第四高等学校医学部(後の旧制金沢医科大学、現在の金沢大学医学部)への転勤を希望したが却下。東京大学で解剖学の研究をしたのち、知人の紹介で仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に講師として赴任、1904年7月に解剖学講座の教授に昇格した。
 
 同年9月、中国の留学生・周樹人(魯迅)が入学(ちなみにこの師弟の年齢差はわずか7歳である)。当時は日清・日露戦争の戦勝の余波で、日本社会には中国を後進国として軽んじる風潮が横溢する中、藤野は魯迅のノートに詳細な添削を加え、懇切に指導した。しかし魯迅は医学では中国を救えぬとさとり、医学を捨てて仙台を去った。その頃の二人の関係は、魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」(小説集『朝花夕拾』に収録)に詳しい。
 
 1915年、仙台医専は東北帝国大学医学部に改組された。帝国大学の教員には帝大卒の資格が必要であったため、医学校卒の藤野は資格を満たせず、退官して郷里の福井県に戻り、三国町で開業医となった。終戦直前の1945年8月11日、往診先で倒れ死去。享年73。
 
 ・人物
 
 帝大教授時代には、甲高い声でしゃべり、身なりに構わず警察にスリと間違えられたことが学校で評判になるなど、決して当時の直接の教え子たちに評価の高い教官ではなかった。
 退官後は田舎の一開業医として生涯を終えた、日本国内では無名に近かった人物である。
 
 教え子の魯迅が1926年に「藤野先生」を発表、魯迅が中国で高く評価されるにつれ、藤野の名が世に知られるようになった。現代に伝わる藤野の人物像のほぼ総ては、魯迅の描写に依存している。
 
 魯迅は作品が世に知られることで消息不明の彼と連絡が取れるようになることを期待していたようだが、結局、藤野が名乗り出ることはなく、身内にも固く口止めしていたという。北京医科大学から教授として招請されたこともあったが、これも固辞した。ただ魯迅の死後、藤野の居場所を知った新聞記者が彼を取材しており、その時のインタビューが残っている。
 
 戦後になると日中友好に貢献した人物として評価されるようになる。その後「藤野先生」は日中両国で国語の教科書に取り上げられ、彼の名は両国に広く知られた。1961年には記念碑が福井市に建てられ、旧宅はあわら市に移築されて藤野厳九郎記念館となった。東北大学では彼の名を冠した「東北大学藤野先生賞」「東北大学藤野記念奨励賞」が設けられた。
 
 藤野家に伝来した資料243点は、あわら市から2006年3月、福井県文書館に寄託、その後2007年3月追加寄託。資料群は、卒業証書、辞令類、履歴書、90点におよぶ書簡類、藤野厳九郎が子息のために作成したと思われるフランス語や英語の手製教科書、西洋医学書の筆写本などである。
 甥の藤野恒三郎は、腸炎ビブリオの発見者である。
 
 …と、こんな藤野厳九郎さん。
 
 ふ〜ん、魯迅の師匠様でありましたか…この像を画像に納めていました時に激しい降雨が開始。そして、雷鳴も(^-^;
 あいにく傘の持参もありませんし、駅舎の軒先に走り込みまして暫し雨宿り。ですが、当分、止みそうもありませんでしたネ。
 
 仕方なく、降雨の中を100m走並みの勢いで「あわらグランドホテル」にと舞い戻り。
 到着と同時に、土砂降りから小雨にと変貌ですから苦笑してしまいましたよ(^.-)☆
 フロントで、「大変でしたネ…どうぞ」とタオルを出して頂きました時には、さすがに感激のGONsanでありました\(^o^)/
 
 挿入画像の下段右2枚は、朝食を終え、出発前の一時の一階フロアの景観です。
 A.M.7:30にヤッとお土産が並びました売店がオープン。担当者の方が施錠解除のシーンです(^-^)//"

 

 

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