2011 鞆の浦「21世紀の朝鮮通信使行列」<3/5>

   

   

 

 

 

 

   

   

 

 

 

 

 

 

 

 ■2011年12月31日
 2011・鞆の浦「21世紀の朝鮮通信使行列」A

 沼名前神社境内の一角に存在しますこの銅像…
 「森下 博 翁」と刻まれておりましたけど、こんな方のようですネ(^.-)☆


 ■鞆町の沼名前神社にある「森下博」像

 備後国沼隈郡鞆町(現広島県福山市鞆町)に沼名前神社の宮司の長男として生まれる。しかし父は宮司を辞め煙草の製造販売に転業。博も9歳の時、学校を辞めさせられ煙草商に見習奉公に出された。満足に学校に通うことも出来なかったが、奉公先近くの学校の先生の勧めで『學問ノススメ』など福澤諭吉の著書を読み大きな感銘を受けた。
 1882年(明治15年)、父が亡くなり家督を相続したが、世は文明開化の時代、大志を抱き1883年(明治16年)15歳の時、数日間歩き通して単身大阪へ上った。

 心斎橋の高級洋物店で丁稚となり10年続け、別家が許され結婚後、1893年(明治26年)24歳の時、大阪淡路町に念願の薬種商「森下南陽堂」を創業。妻と従業員2名から社を始め根本方針として「原料の精選を生命とし、優良品の製造供給進みては、外貨の獲得を実現し広告による薫化益世を使命とする」と記し、福沢諭吉が新聞広告の重要性を説いていたことを受け、広告を重要視した販売戦略を掲げた。

 当時世間一般には、広告を出すような会社は商品に自信が無いに違いない、と思われていた。薬種商の仕事は富山や新潟などの売薬業者に原料を販売するのが主だったが、自身が開発した香袋『金鵄麝香』や内服美容剤『肉体美白丸』を発売。これらは大きな成果は生まなかったが1900年(明治33年)、笹川三男三医学博士の開発した梅毒薬『毒滅』の販売に家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。

 商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出し大きな成果を収めた。


 ◆仁丹の製造発売

 社を軌道に乗せた森下は、続いて以前から着目していた家庭保健薬の研究を進めた。軍隊に召集された時、任地の台湾で現住民が清涼剤を口に含み伝染病に感染しないようにしていたのを見て発想を得たといわれる総合保健薬の開発研究の為、薬学の権威に協力を依頼した。また原料となる薬草を中国大陸まで探しに行ったり、富山に何度も足を運び生産方法を学んだ。

 更に、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年(昭和4年)からは銀箔)し、こうして大衆薬『仁丹』を1905年(明治38年)発売した。今度は更にスペクタクルな広告戦略を打ち出した。ネーミングは、「仁儀礼智信」の五常首字であり、儒教最高の徳とされる「仁」と、台湾で丸薬に使われていた「丹」の文字を組み合わせ仙薬のイメージを持たせた。トレードマークにも修正を重ね、最終的に毒滅で使ったビスマルクをデフォルメし、大衆に人気のあった大礼服を着せた。

 売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ新聞や街の琺瑯(ホーロー)看板だけでなく薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置。大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだった。また電柱広告にも目を付け町名表示と広告を併せてやったり、鉄道沿線の野立看板を設置。更に東京浅草や大阪駅前に大イルミネーション・仁丹塔を建てこれらは名所となった。全国津々浦々に名前が浸透した仁丹は発売わずか2年で売薬中、売上高第1位を達成し莫大な利益を上げた。


 ◆日本の広告王

 1907年(明治40年)には輸出部を設置。通信委託販売を考案し中国全土4,000ヵ所に販路を拡げた。これを機に東南アジア、インド、北米、南米、アフリカにも進出した。1914年(大正3年)からは古今東西の格言を記した「金言広告」、一般常識を短文にまとめた「昭和の常識」など世の中に役立つ広告を送り出し“日本の広告王”と称された。

 1920年(大正9年)公益に資する広告での社会貢献と輸出振興の功により緑綬褒章受章。また1938年(昭和13年)には憧れの福沢諭吉に次いで、第二回「日本広告大賞」を受賞した。1914年(大正3年)宮内省御用、1919年(大正8年)大阪府実業家功労者として宮中に召された。これを記念し天皇記念財団を設立、育英事業にも力を尽くした。その他国際親善にも寄与し関係諸国からも多数の勲章を受けた。

 仁丹は記録的なロングセラーブランドとなり1936年(昭和11年)からは社名にも用いられることとなった。「森下仁丹」の生産実績が医薬品業界のトップとなるのを見届けて、1943年(昭和18年)死去。享年75。翌日中国大陸の新聞は「神薬仁丹の創業者、日本森下博大先生死す」と訃報を伝えた。


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